「文字は記憶を損なう」——ソクラテスは、新しいメディアをそう警告した最初の一人でした。同じ警告は印刷にもテレビにも、そしてインターネットにも繰り返されています。恐れの形は毎回同じ。けれど「実際に何が変わったのか」を数字で測れるようになったのは、人類史上いまが初めてです。

文字の発明に反対した哲学者

紀元前4世紀に書かれたプラトンの対話篇『パイドロス』に、奇妙に現代的な場面があります。ソクラテスが語るエジプトの伝説で、文字を発明した神テウトが「これは記憶と知恵の妙薬です」と王に誇ると、王タモスはこう退けるのです。文字を学んだ者は記憶の訓練を怠り、自分の内側からではなく外部の記号に頼って思い出すようになる。多くを聞きかじって物知りに見えても、その実、何も学んでいない——。

新しいメディアが人間の能力を損なうという警告としては、記録に残る最古級のものです。以後、印刷本にも小説にもテレビにも、ほとんど同じ形の警告が繰り返されてきました。だからインターネットへの不安も「いつもの騒ぎ」と片づけたくなるのですが、ここにはひとつ落とし穴があります。ソクラテスの予言は、外れたとは言い切れないのです。文字に頼るようになった社会では、長大な詩を丸ごと暗唱するような記憶の使い方が実際に衰えていったと考えられています。恐れの言葉は毎回同じでも、メディアが人間の何かを変えてきたこと自体は、どうやら本当らしい。ではインターネットは、私たちの何を変えたのでしょうか。それとも——何も変えていないのでしょうか。

立場1: メディアこそが人間を作り替える

メディア研究者マーシャル・マクルーハンは、1964年の主著『メディア論』の冒頭で「メディアはメッセージである」と宣言しました。テレビで何を放送するかより、テレビという形式そのものが人間の知覚と社会の組み立てを変えてしまうことのほうが重大だ、という主張です。

この直観に歴史の裏づけを与えようとしたのが、歴史家エリザベス・アイゼンステインでした。1979年の二巻本の大著で彼女は、印刷術がもたらした「大量に広める・同じものに揃える・後世に残す」という三つの働きが、ルネサンス、宗教改革、近代科学の成立をどう支えたかを描き出しました。写本が一冊ずつ微妙に違っていた世界と、離れた土地の学者が同じテキストを参照して議論できる世界とでは、知の営みの土台そのものが違う、というわけです。

この系譜の強みは、文字や印刷という長いスケールで見れば、メディアの変化と人間・社会の変化が確かに連動してきたと示せることです。弱点は、因果の主張としては粗いこと。同じ技術でも社会が違えば帰結は違いますし、「印刷が宗教改革を起こした」という因果を実験で確かめることはできません。アイゼンステイン自身、印刷は変化の「ひとつの動因であって、唯一の動因ではない」と慎重に釘を刺しています。それでもこの見方は「技術決定論」と呼ばれ、人間の側の選択を軽視していると批判され続けてきました。

立場2: 人間は変わっていない、見えるようになっただけ

反対側には、技術は人間の昔からの性質を可視化し、増幅しているだけだ、という見方があります。

社会学者マーク・グラノヴェッターが1973年の論文「弱い紐帯の強さ」で示したのは、転職に効く情報が、しばしば会う親友からではなく、たまにしか会わない知人から流れてくるという発見でした。SNSの「友達」や「フォロワー」の大半は、まさにこの弱い紐帯です。この見方に立てば、インターネットは人間の社交を作り替えたのではなく、もともとあった知人の層を、かつてなく安く維持できるようにしただけだということになります。エコーチェンバー——似た意見だけが反響する空間——への不安にしても、似た者同士が結びつきやすい傾向は「ホモフィリー」と呼ばれ、フィードのアルゴリズムが生まれる何十年も前から社会学の定番の発見でした。

この立場の強みは、「ネットが人を変えた」ように見える現象の多くを、既存の人間性の増幅として説明できることです。弱点は、「ただの道具」と言うには変化の規模が大きすぎること。維持できる関係の数、情報が届く速さ、誰もが発信者になれること——量の変化はどこかで質の変化に転じるのではないか、という反問に、この立場はまだ十分に答えていません。

地球の「狭さ」は、測れるほど変わっていた

構造の変化なら、すでに測定されています。心理学者スタンレー・ミルグラムらが1960年代後半に行った実験では、ネブラスカ州とボストンの296人に手紙を託し、「マサチューセッツ州在住のある人物へ、知り合いの紹介だけをたどって届けてほしい」と頼みました。目標人物に到達したのは64通。仲介した人数は平均5.2人でした。見知らぬ二人も数人たどればつながっている——後に「六次の隔たり」と呼ばれる知見です。

それから約40年後、コーネル大学・ミラノ大学・Facebookの研究者たちは、当時の全ユーザー7億2100万人のネットワークで同じ量を計算しました。仲介者の平均は3.74人。2016年に15億9000万人で再計算すると、3.57人まで縮んでいました。手紙の実験には途中で途切れた連鎖が多いという限界がありますし、Facebook上の「友達」が現実の知り合いと同じとも限りません。それでも、二つのことは動きません。人類のつながりの網の目は、数十年のあいだに測れるほど縮んだこと。そして、十数億人規模の人間関係を「測る」こと自体が、史上初めて可能になったこと。少なくとも人間関係の構造という水準では、変化は疑いなく実在します。

史上最大の実験は、静かな答えを返した

では、変わった環境は人間の中身——意見や態度——まで変えたのでしょうか。2020年の米大統領選挙の際にMetaと外部の研究者たちが行った共同プロジェクトは、この問いに対する現時点で最大の検証です。結果は2023年、ScienceとNatureに一斉に掲載されました。

その一つで、政治学者アンドリュー・ゲスらは、同意したユーザーのフィードを、アルゴリズムのおすすめ順から単純な時系列順へ3か月間切り替えました。「アルゴリズムを止めろ」という、規制論議で繰り返し提案されてきた処方箋の実地試験です。ユーザーの体験は大きく変わり、プラットフォームの滞在時間は大幅に減りました。ところが、争点への意見も、相手陣営への感情も、政治知識も、統計的に有意には動きませんでした。おまけに、アルゴリズムを切ると信頼性の低い情報源への接触はむしろ増えました。同じプロジェクトの別の実験では、2万3377人について「自分と同じ側」の発信源からのコンテンツを約3分の1減らしましたが、これも分極化を減らしませんでした。

一方で、コミュニケーション学者サンドラ・ゴンサレス=バイロンらが2億800万人の集計データで確認したのは、政治ニュースへの接触が思想的にかなり分離しており、しかもその分離が非対称だという事実です。保守層だけが集中的に消費するニュース圏が存在し、ファクトチェックで誤情報と判定された記事の大半がそこに集まっていました。

環境の偏りは実在する。しかし数か月のレバー操作では、人の中身はほとんど動かない。この食い違いは、2016年に5万人のニュース閲覧履歴を分析した研究の結論とも響き合います。SNSと検索経由のニュース接触は、自分と反対側の意見に触れる機会と、利用者のあいだの思想的な距離を、同時に増やしていました。同じ技術が、情報の多様化と意見の分極を両方進めて見せたのです。単純な悪玉論も、単純な無罪論も、データはどちらも裏切ります。

いま分かっていること、まだ分からないこと

分かってきたことは三つあります。人間関係の構造や情報環境の変化は実在し、史上初めて測定可能になったこと。その環境を数か月操作しても、意見や態度はほとんど動かないこと。それでも「何も変わっていない」とは言えないこと——時間の使い方、言葉づかい、関係を維持する形は、明確に変わりました。

最大の未知は、時間のスケールです。文字が人間の記憶の使い方を変えるのには、世代を何度も重ねる時間がかかりました。数か月の実験は、そうしたゆっくり進む変化を原理的に捉えられません。しかも今回は対照群がいません。インターネットの外で育つ集団がもう残っていない以上、人類全員が実験群だからです。

そしてこの問いは、いま形を変えつつあります。どのニュースを見るかを選ぶのも、返信の文面を提案するのも、すでにアルゴリズムとAIの仕事になりました。「インターネットは人間を変えたのか」という過去形の問いは、「私たちはこれから何に変えられようとしていて、そのつまみを誰が握っているのか」という現在形の問いに、静かに接続されています。今夜、スマートフォンに手を伸ばすとき、少しだけ思い出してみてください。その何気ない動作自体が、20年前の人類には存在しなかった習慣です。変化の渦中にいる者に、変化はいちばん見えにくい。文字が作り変えた世界を、ソクラテスが見られなかったように。