青信号の色は、あらためて見れば緑です。それでも日本語は、青葉や青りんごのように、緑のものを「青」と呼び続けてきました。言葉の区切り方が違う人たちは、世界の見え方まで違うのでしょうか。
信号の「青」は、なぜ緑なのか
青信号を思い浮かべてください。あの色は、あらためて見れば緑です。それでも私たちは「青信号」と呼びます。青葉、青りんご、青々とした芝生——日本語の「青」は、英語のblueよりずっと広い範囲を覆ってきました。
逆の例もあります。ロシア語には、英語のblueにそのまま対応するひとつの単語がありません。明るい青は「ゴルボイ」、濃い青は「シニー」。ロシア語を話す人にとってこの二つは、水色と紺という同系色の濃淡ではなく、日本語話者にとっての赤とピンクのように「そもそも別の色」です。
ここで疑問が浮かびます。言葉の区切り方が違う人たちは、世界の見え方そのものも違うのでしょうか。それとも、見えている世界は全員同じで、ただ呼び方が違うだけなのでしょうか。単純そうに見えるこの問いは、およそ100年にわたって言語学と心理学を二分してきました。
立場1: 言語が思考の鋳型になる
一方の極にあるのが、20世紀前半にエドワード・サピアと、その学生だったベンジャミン・リー・ウォーフが展開した考え方、のちに「サピア=ウォーフ仮説」と呼ばれるものです。言語は思考を運ぶ透明な容器ではなく、思考そのものを形づくる鋳型だ、という主張です。
ウォーフの根拠は、アメリカ先住民の言語と英語の比較でした。とくに有名なのがホピ語の分析です。ウォーフは、ホピ語には英語のように時間を切り分けて数える語彙や文法形式が見当たらないとし、そこからホピの人々は時間を、過去から未来へ流れる直線とは別の仕方で捉えているのではないか、と論じました。
この仮説には強さの異なる二つのバージョンがあります。強いバージョンは「言語決定論」——自分の言語にない概念は考えることができない、という主張。弱いバージョンは「言語相対論」——言語は思考を縛りはしないが、注意の向け方や記憶のしかたに影響する、という主張です。この区別が、のちの論争を整理する鍵になります。
立場2: 思考は言語に先立つ
反対の極にあるのが、思考は言語とは独立に存在するという普遍主義の立場です。ノーム・チョムスキー以降の言語学は、世界中の言語の背後に人類共通の設計を想定してきました。認知科学者のスティーブン・ピンカーはさらに踏み込み、私たちは日本語や英語で考えているのではなく、「メンタリーズ(心の言語)」と呼ぶべき内的な形式で考えていて、個々の言語はその出力にすぎないと論じます。ピンカーは言語決定論を「お決まりの不条理」とまで切り捨てました。
普遍主義には有力な証拠もあります。1969年、人類学者のブレント・バーリンと言語学者のポール・ケイは、およそ100の言語の色彩語彙を比較し、色の名前の増え方には普遍的な順序があると示しました。色の切り分けは言語ごとにばらばらなのではなく、人類共通の知覚の構造に沿っている、というわけです。
そしてウォーフの看板事例そのものにも反証が突きつけられます。1983年、言語学者のエッケハルト・マロトキは、ホピ語に時間を表す語彙や文法形式が豊富に存在することを、大部の研究で示しました。もっとも、ウォーフの主張はそこまで単純ではなかったという再反論もあり、ホピ語論争は今も読み直しが続いています。
それでも言語は忍び込む——青の実験と、東から西へ流れる時間
強い決定論が退けられたなら、話は終わりでしょうか。2000年代以降、「弱い影響」を精密に測る実験が相次ぎ、この問いは再び動き出しました。
ひとつめは、冒頭のロシア語の青です。2007年、ジョナサン・ウィナワーやレラ・ボロディツキーらの研究チームは、ロシア語話者と英語話者に、並んだ青の色見本が同じか違うかをできるだけ速く判定してもらいました。すると、2色がゴルボイとシニーの境界をまたぐとき、ロシア語話者は同じカテゴリー内の2色を比べるときより速く判定できたのです。英語話者にはこの差がありませんでした。興味深いのはここからで、頭の中で数字の列を保持するような言語系の課題を同時に課すと、ロシア語話者の優位は消えました。言葉が忙しいときには、色の見分け方が英語話者と同じになる——言語が知覚の判断にリアルタイムで参加していることを示唆する結果です。ただし2020年の再検証では、この効果が現れる条件はかなり限られると報告されており、効果の大きさをめぐる検証は続いています。
ふたつめは、時間の流れる向きです。オーストラリア北部の先住民コミュニティ、ポーンプラーウで話されるクウク・サアヨレ語には「右」「左」で位置を表す習慣がなく、あらゆる位置関係を東西南北で表現します。カップは「あなたの左」ではなく「あなたの南」にあるのです。こうした絶対方位の言語の話者が、言葉を使わない空間記憶まで方位ベースでこなすことは、スティーヴン・レヴィンソンらが1990年代から報告してきました。2010年、ボロディツキーとアリス・ゲイビーはポーンプラーウで、年をとっていく人の顔や食べかけのバナナなど、時間の経過を写した写真カードを順に並べてもらう実験を行いました。英語話者は例外なく左から右へ並べます。ところがクウク・サアヨレの人々は、自分の体がどちらを向いていても、時間を東から西へ並べたのです。南を向いて座れば左から右へ、北を向けば右から左へ。時間という抽象的なものの置き方が、言語と結びついた方位の感覚に乗っていました。
いま分かっていること、まだ分からないこと
現在の研究者の多くは、二つの極のあいだに立っています。「言語がなければ考えられない」という強い決定論を支える証拠は、ほとんど見つかっていません。象徴的なのは、正確な数詞をほぼ持たないアマゾンのピダハン語をめぐる顛末です。2004年の実験では、話者が3を超える量の正確な照合を苦手とすることが報告され、言語が思考を縛る証拠に見えました。ところが2008年の再検証で、目の前のものを一対一で対応づけるような、記憶に頼らない課題なら大きな数でも正確にこなせることが分かります。研究チームの結論は、数詞とは「なければ数を考えられない檻」ではなく「あれば正確に覚え、伝えられる道具」だ、というものでした。
言語は思考の牢獄ではなく、認知の道具箱である——これが現時点でのおおまかな見取り図です。ただし、道具がどこまで使い手を変えるのかは未解決です。色や空間で確認された効果については、因果の向きや文化の影響との切り分けが難しく、再現性の検証も進行中です。二つ以上の言語を行き来する人の頭の中で何が起きているのか、機械翻訳が言語の壁を薄くしていく時代に「言語ごとの世界の見え方」はどう変わるのか。決着がつくどころか、問いはむしろ増え続けています。