同じ文章を、片方は読み返し、もう片方は本を閉じて思い出す。直後に測れば読み返した側が勝ちますが、日をおくと逆転します。しかも読み返した側のほうが「自分は覚えられている」と自信を持っていました。学びの手応えは、学びの量を測れていないようです。

手応えのある勉強ほど、身についていない

同じ文章を、同じ時間だけ勉強してもらいます。片方は繰り返し読み返す。もう片方は一度読んだら本を閉じ、思い出せるかぎりを書き出す。どちらがよく覚えているでしょうか。

学習の直後に測ると、読み返した側が勝ちます。ところが日をおいて測り直すと、順位は逆転します。心理学者ヘンリー・ロディガーとジェフリー・カーピキーが2006年に報告したこの実験で厄介なのは、成績よりも学生たち自身の見立てでした。読み返した側のほうが、「自分は覚えられている」という自信を強く持っていたのです。

勉強中の「分かってきた」という手応えは、身についた量の計器としてあまり当てになりません。すらすら読めるのは、その文章に慣れた証拠にすぎない。記憶研究者のロバート・ビョークが1994年に「望ましい困難」と名づけたのは、この種の操作でした。間隔をあける、順番を混ぜる、読み返す代わりに思い出す——どれも練習中の成績を下げ、そのぶん後の保持を上げます。学びは、それが起きている最中にはうまく感じられない。では、学ぶとはどんな出来事なのでしょうか。

立場1: 知識は伝えられる——初学者に探させてはいけない

ひとつめの系譜は、学習を「外から入れる」側から設計します。行動主義が刺激と反応の結びつきとして扱った学習を、20世紀後半の認知主義は頭の中の情報処理として捉え直しました。そこで見つかったのは、むしろ制約です。新しい情報を一度に載せられる作業台——ワーキングメモリ——は、驚くほど狭い。

これを前面に出したのが、ポール・キルシュナー、ジョン・スウェラー、リチャード・クラークが2006年に発表した「なぜ指導を最小限にする教え方はうまくいかないのか」という論文です。初学者は、自分が何を探せばよいかを知りません。手がかりの乏しい環境に置くと、狭い作業台は探索で埋まり、肝心の中身が残らない。だから解き方の手本をはっきり示したほうが速い、というわけです。被引用は7,000件を超えています。

弱いのはその先です。手本を示す指導が効くのは相手が初学者のあいだで、ある程度できるようになると同じ手が効きにくくなる、という報告もあります。答えの定まらない問題や、そもそも学ぼうとするかどうかも、この枠組みの外に置かれがちです。

立場2: 知識は渡せない——学び手が組み立てるしかない

もうひとつの系譜は、学びを受け取りではなく構成として見ます。ジャン・ピアジェは、子どもが世界について自前の理屈を作り、現実とぶつかるたびに作り直していく過程として発達を描きました。レフ・ヴィゴツキーは、その作り直しが他者とのやりとりの中で起きることを強調しました。

強い論拠は、教える側の実感と噛み合うことです。同じ説明を聞いた二人が、まるで違うものを持ち帰る。説明が、受け手の中に既にある枠組みへ接ぎ木されるからだと考えれば筋が通ります。誤答も不注意ではなく、その子が持つ別の理屈の現れだと見えてきます。

ただし、「知識は構成される」という認識論から「発見的に教えよ」という教授法が自動的に導けるわけではありません。ここがキルシュナーらに突かれた急所でした。翌2007年、シンディ・ヘムロ=シルヴァーらは応答論文で、現場の問題解決型学習は最小限の指導どころか濃密な足場かけを伴っている、と反論します。争点は「伝達か構成か」から、「どの段階の学び手に、どれだけの足場を、いつ外すか」という設計の問いへ静かに移りました。論争そのものは、20年たっても終わっていません。

アリは教える。子どもは真似しすぎる

いったん教室から離れます。動物行動学は「教える」を、心の中身ではなく行動の形で定義してきました。ティム・キャロとマーク・ハウザーが1992年に整理した枠組みで、おおまかにいえば、相手が未熟なときにだけふるまいを変え、そのぶん自分は割を食い、結果として相手の学習が早まる——この形がそろえば、何を考えていようと「教えている」と扱います。

教える側と学ぶ側のあいだに双方向のやりとりがあるところまで確かめられた最初の例は、霊長類ではなくアリでした。2006年、ナイジェル・フランクスとトム・リチャードソンは『ネイチャー』に、Temnothorax albipennis という小さなアリのタンデムランニング——餌場を知る一匹が、知らない一匹を引き連れて歩く行動——を報告します。決定的だったのは、二匹が互いに合図を送り合っていたこと。後ろの個体は触角で前に触れながら進み、遅れると前のアリは減速し、近づきすぎると加速する。先導役は自分の速さで走れず、そのぶん損をします。論文の結びは、脳の大きさよりも情報の価値のほうが教えるふるまいの進化を左右したのかもしれない、というものでした。

同じ2006年、アレックス・ソーントンとキャサリン・マコーリフは『サイエンス』に野生のミーアキャットを報告します。群れの大人は子にサソリを与えますが、子が幼いうちは殺してから、あるいは毒針を取り除いてから渡す。子が育つと弱らせただけの獲物になり、やがて生きたまま無傷のサソリが渡されます。しかも、その切り替えを決めているのは子の物乞いの鳴き声の変化らしい。大人は子の知識を推し量っているのではなく、単純な手がかりに合わせて渡し方を変えている。論文の言い方を借りれば、複雑な認知を使わずに学習を加速させている。教えることは、相手の心を読めなくても成立するのです。

では、人間の側は何が違うのか。2005年、ヴィクトリア・ホーナーとアンドリュー・ホワイトゥンは、チンパンジーと3〜4歳の子どもに同じ課題を出しました。棒で箱から報酬を取り出す手本を見せますが、そこにはわざと無関係な動作が混ぜてあります。箱が不透明なとき、どちらも無駄な動作まで丸ごと真似しました。ところが箱を透明にして中の仕組みが見えるようにすると、チンパンジーは要らない手順を省いた。子どもは——透明でも、全部真似しました。効率を捨てて。

人間の学びの特異さは、よく学ぶことよりむしろ、真似しすぎることにあるのかもしれません。仕組みが見えていてもなお、大人の手順をそのまま引き受けてしまう。この過剰さは、理屈の分からない複雑な技術を世代を越えて運ぶ力になりますが、同時に、意味を失った手順が延々と残る理由でもあります。

職場では、うまくいっている理由に誰も触らない

学びの話は学校を出ると急に語られなくなりますが、組織を研究してきた人たちは同じ構造を見ています。

クリス・アージリスは1970年代から、組織の学びを二つの層に分けました。目標や前提はそのままにずれを直すのがシングルループ学習、目標や前提のほうを問い直すのがダブルループ学習です。彼の例はサーモスタットでした。室温が設定を下回ったら暖房を入れる——これがシングルループ。「そもそもなぜこの設定温度なのか」と問い直せる装置があれば、それがダブルループだ、と。

1991年、アージリスは『ハーバード・ビジネス・レビュー』に「賢い人にどう学ばせるか」を書きます。組織の学びをいちばん引っ張れそうな、教育があり実績もあり当事者意識も高い専門職ほど、学ぶのが下手だ、という意地悪な観察です。理由として彼が挙げたのは、彼らが失敗をほとんど経験してこなかったこと。うまくいかない場面に出会うと、原因を自分の外に置いて前提を守ってしまう。

読み返しが気持ちよかったのは、自分の理解がぐらつかないからでした。組織が前提を問い直さないのも、同じ気持ちよさに支えられています。

いま分かっていること、分かっていないこと

だいぶ確からしくなったこともあります。2013年、ジョン・ダンロスキーらは学生がよく使う10種類の学習法を証拠の質で評価しました。高い評価がついたのは二つだけ——思い出す練習と、間隔をあけた学習です。低い評価は五つ、要約、ハイライト、語呂合わせ、イメージ化、そして再読でした。カーピキーらが177人の大学生に尋ねた調査では、多くが読み返しを主な勉強法に挙げ、自己テストを挙げた人はわずかです。人気と効果は、見事に噛み合っていません。

支持されなかった側もあります。「視覚型」「聴覚型」といった学習スタイルに教え方を合わせる、という考えです。2008年、ハル・パシュラーらは、それを支持するにはあるスタイルの学び手に最適な方法が別のスタイルには最適でない、という交差した結果が要ると整理しました。そういう設計の研究はほとんどなく、教育実践に組み込む根拠は現時点でない、というのが結論です。必要な証拠の形が長く共有されていなかった以上、現場を責める話ではありません。

分かっていないほうが大きいのは、転移です。あるところで学んだことが、別のところでどれだけ使えるのか。2013年のメルビー=レルヴォーグとハルムのメタ分析は、ワーキングメモリの訓練プログラムを23件集め、訓練した課題は短期的に伸びるものの、言語・非言語の能力にも、読みにも、算数にも広がらないと結論しました。「頭そのものを鍛える」学習は、いまのところ見つかっていません。

だとすると、学び方を設計するというのは、万能の能力を上げることではなく、学びたい対象ごとに、うまくいかない感じを自分で仕込むことなのかもしれません。次に何かを覚えようとして読み返す手が伸びたら、いったん本を閉じて、思い出せるかぎりを言葉にしてみてください。出てこない、というあの引っかかりは、たぶん失敗の音ではありません。