「どこから」には二つの意味があります。地球のどこかなのか、宇宙から来たのか。そして、ただの化学反応がどうやって「生きている」に変わったのか。前半の手がかりは増え続けていますが、後半は、いまも誰ひとり実験室で再現できていません。

密封されたカプセルの中に、RNAの文字があった

探査機「はやぶさ2」が持ち帰ったカプセルには、小惑星リュウグウの砂が約5.4グラム入っていました。その一部を分析した北海道大学の大場康弘准教授らのチームは、2023年3月、そこにウラシルを検出したと報告します。ウラシルはRNAを構成する四つの塩基のひとつ、生命の情報を書き写すための文字そのものです。含まれていた量は10億分の6から32という微かなものでした。

隕石から同じような分子が見つかった例は以前にもありましたが、地上に落ちた石には「地球のものが混じったのでは」という疑いがつきまといます。リュウグウの砂は小惑星の上で採取され、密封されたまま届きました。地球の生き物に一度も触れていない物質の中に、生命の文字があった。この一点が決定的でした。

生命の材料は宇宙にありふれている。ここまでは確からしくなってきました。ところが「生命はどこから来たのか」という問いは、これで半分も片づきません。この問いには二つの別の問いが折りたたまれています。場所の問い——地球のどこかなのか、宇宙から来たのか。そして過程の問い——ただの化学反応が、どうやって「生きている」に変わったのか。手がかりが増えているのは、前者だけです。

暖かい小さな池か、深海の白い煙突か

1871年、チャールズ・ダーウィンは友人の植物学者フッカーへの手紙に、有名な一文を残しています。「あらゆる種類のアンモニアとリン酸塩があり、光と熱と電気などがある暖かい小さな池」で、タンパク質のような化合物が化学的に作られたと想像できるなら——。ただし彼は、いま同じことが起きても、その物質は「たちどころに食べられるか吸収されてしまう」だろうと付け加えました。生命が生まれるには、まだ生命がいない世界が要る。

この「暖かい小さな池」が、その後100年あまり標準的なイメージであり続けました。それを揺さぶったのが深海です。1993年、地球化学者マイケル・ラッセルは、アルカリ性の熱水が湧く海底こそ生命のゆりかごだと提案します。当時、そんな場所はまだ見つかっていません。ところが2000年、大西洋の海底で「ロストシティ」と呼ばれる熱水フィールドが発見されます。マントルの岩と海水の反応に駆動され、水素とメタンに富むアルカリ性の水を噴き出す、家ほどの高さの白い煙突が林立する場所でした。

ラッセルとウィリアム・マーティンの筋書きはこうです。アルカリ性の熱水とやや酸性の海水が、鉱物の薄い壁を隔てて接する。壁の内と外ではpHが3ほど違い、自然のプロトン(水素イオン)の濃度差が生まれる。これは、いまの細胞が膜の内外に自力で作り、エネルギー通貨ATPの合成に使っている勾配とよく似ています。生命は自前の勾配を持つ前に、地質が用意した勾配に間借りしていたのではないか。

反論もあります。細胞の中身はナトリウムよりカリウムが10倍ほど多いのに、海水は逆にナトリウムが40倍多い。海で生まれたなら、この偏りは説明しにくい。また、分子が長くつながるには水が抜ける必要があり、乾湿のくり返しが要ります。常に水に浸かった深海では起こりにくい条件です。こう考える研究者たちは、陸上の温泉地帯を推します。ダーウィンの小さな池が、装いを新たにして戻ってきた形です。

遺伝が先か、代謝が先か

場所が決まっても、もっと厄介な問いが残ります。材料から「自分を複製し、進化するもの」への飛躍です。ここには大きく二つの陣営があります。

ひとつは、情報を担う分子が先だったと考える立場です。1980年代初め、トーマス・チェックとシドニー・アルトマンがRNAは酵素のように反応を触媒しうると発見し(1989年ノーベル化学賞)、1986年にウォルター・ギルバートがこれを「RNAワールド」と名づけました。いまDNAとタンパク質が分担している情報の保存と触媒を、RNAが一人二役でこなしていた時代があったのではないか。証拠は私たちの体の中にもあります。タンパク質を組み立てるリボソームの、アミノ酸をつなぐ中心部分はRNAでできている。細胞に残った化石のようなものです。

弱点もはっきりしています。RNAの部品であるリボヌクレオチドを、酵素なしに作るのが極端に難しいのです。糖と塩基を別々に用意して結合させる素直な経路は、実験室でうまくいきません。2009年、ジョン・サザーランドらは糖と塩基を経由しない道筋を見つけ、生命誕生前にありえた条件で活性化したリボヌクレオチドを合成しました。それでもなお、ゼロから自分を複製し続けるRNAを作れた人はいません。

もうひとつは、代謝が先だと考える立場です。ギュンター・ヴェヒタースホイザーの「鉄硫黄ワールド」では、海底の硫化鉄などの鉱物表面で、自分自身を触媒する反応の輪がまず回りはじめた、とされます。1998年、彼とクラウディア・フーバーは、硫化ニッケルと硫化鉄の表面で一酸化炭素と硫化水素を使い、100度の水中でアミノ酸どうしがつながることを示しました。

こちらにも痛い批判があります。生命起源の研究を長く牽引したレスリー・オーゲルは2008年、酵素のない原始地球でそんな反応の輪が回るとは考えにくいと論じました。こうした回路には、よく似た分子を区別できる触媒が6種類以上、同じ場所に揃っていなければならず、その確率は「極めて小さい」と。仮に渦が回りはじめても、それがどうやって「遺伝」を手に入れたのかは説明されていません。この対立は40年経っても決着していません。

ミラーの箱に眠っていた瓶

1953年、シカゴ大学の大学院生スタンリー・ミラーは、原始地球の大気に見立てたメタン・アンモニア・水素・水蒸気の混合気体に放電を続け、フラスコの中にアミノ酸が生じることを示しました。『サイエンス』に報告されたのは5種類のアミノ酸です。生命の起源が、哲学の話題から実験の話題に変わった瞬間でした。

この話には続きがあります。2007年にミラーが亡くなったあと、1950年代の実験で得られた試料の瓶が、ラベルを貼られたまま保管されていることが分かったのです。しかもその中には、論文にならなかった実験のものが混じっていました。噴き出す蒸気で気流を強めた「火山型」の装置——ミラー本人があまり注意を払わなかったほうの装置です。

2008年10月、アダム・ジョンソンらは、この瓶の中身を現代の分析装置にかけた結果を『サイエンス』に発表します。おなじみの装置の試料からは14種類のアミノ酸が、論文にならなかった火山型の装置の試料からは、22種類のアミノ酸と5種類のアミンが検出されました。ジョンソンは「ミラーがいちばん注意を払わなかった装置が、いちばん面白い結果を出した」と述べています。当時は、それを見るための道具がなかったのだ、と。半世紀のあいだ、答えの一部は箱の中で待っていたことになります。

ところが、この物語にはもう一段のひねりがあります。ミラーが前提にしたメタンとアンモニアに富む強い還元的な大気は、現在の地質学ではあまり支持されていません。初期地球の大気は、二酸化炭素と窒素がもっと多かったと考える研究者が多いのです。つまりこの実験は、著者が知っていたよりずっと多くのものを、地球には存在しなかったかもしれない条件の下で作っていたことになります。もっとも、一酸化炭素や二酸化炭素を含む大気でも同程度の収量が得られるという後年の実験もあり、結論のほうは前提より長生きするかもしれません。

3億年で、そこまで行けるのか

いちばん驚かされるのは、時間の短さかもしれません。

2024年、エドマンド・ムーディらのチームは、現存するすべての生物の共通祖先LUCAが、およそ42億年前に生きていたとする推定を発表しました。しかもそのLUCAは、原始的な粒のようなものではありません。250万塩基対以上のゲノムに約2,600個のタンパク質遺伝子をもつ、現代の細菌に匹敵する複雑さの嫌気性生物で、単独で漂うのではなく、すでにできあがった生態系の一員だったと推定されています。別の研究は、LUCAが水素に依存する好熱性の生物で、地質活動の活発な環境に住んでいたと見ています。熱水噴出孔説と響き合う像です。

地球ができたのは約45億年前です。岩と水と気体しかなかった惑星が、3億年あまりのうちに、2,600個の遺伝子をもつ細胞とその隣人たちを抱えるところまで来ていた。しかもLUCAは起源ではありません。生き残った系統をさかのぼった先の共通祖先にすぎず、その手前で消えていったものたちの記録は、ほとんど残っていません。

分かっているのは材料の側です。アミノ酸も塩基も、地球でも宇宙でも自然に生じ、隕石や小惑星の砂に乗って運ばれてくる。分かっていないのは、その化学のスープが「自分を作り続け、間違えながら子孫を残すもの」に変わった一線です。宇宙から来たと考えても、この一線は消えません。起源の場所が別の天体に移るだけで、何が起きたのかはかえって調べにくくなります。

この問いは、いま探査機の手でも問い直されています。土星の衛星エンケラドスが噴き出す氷、木星の衛星エウロパの地下の海、火星で採取された岩。どれも「もう一度起きたのか」を確かめる試みです。一度きりの偶然なら宇宙はおそらく静かで、ありふれた化学の帰結なら、空はもっと賑やかなはずです。

いまこの瞬間も、あなたの細胞の中ではRNAが合成されています。そこで使われているウラシルは、リュウグウの砂から見つかったものと、まったく同じ分子です。材料は宇宙のどこにでもある。それが「生きている」に変わった出来事だけが、まだ誰にも再現できていません。