2015年、アメリカ全土で同性婚を認めると決めたのは、国民投票でも議会でもなく、9人の裁判官のうちの5人でした。祝福した人も憤った人も、同じ一つの問いの上に立っています——何が正義かを、誰が決めるのか。

五人が決めた日

2015年6月、アメリカ連邦最高裁判所は、同性どうしの結婚をすべての州で認める判決を出しました。何百万人もの人生を変えたこの決定を下したのは、国民投票でも議会でもなく、9人の裁判官——正確には、多数意見に回った5人です。反対したスカリア判事は、この判決は国民から「自らを統治する自由」を奪うものだ、と激しい言葉で異を唱えました。

この判決を祝福した人も、憤った人も、同じ一つの問いの上に立っています。何が正義かを、誰が決めるのか。神でも王でもないとしたら、多数決でしょうか。裁判官でしょうか。それとも理性でしょうか。「正義」という言葉は毎日のようにニュースに登場しますが、その決定権が誰の手にあるのかと問われると、意外なほど答えに詰まるのではないでしょうか。

立場1: 誰でもない場所から、理性が導く

ひとつめの立場は、正義は特定の誰かが決めるものではなく、公平な条件で理性的に考えれば誰もが到達できるものだ、と考えます。

この立場の現代の代表が、哲学者ジョン・ロールズです。1971年の『正義論』でロールズは、有名な思考実験を提案しました。自分が裕福か貧しいか、どんな才能や属性を持って生まれるか——一切を知らされない「無知のベール」の内側で、あなたはどんな社会のルールに合意するでしょうか。自分がどの位置に落ちるか分からなければ、人は特定の誰かをえこひいきするルールを選べません。つまり、公平な視点さえ確保すれば、正義の原理は導き出せる。決めるのは王でも多数派でもなく、いわば「誰でもない視点」に立った理性だ、というわけです。

立場2: 正義は共同体の中で育つ

ふたつめの立場は、そこに正面から異を唱えます。

哲学者マイケル・サンデルは1982年の『リベラリズムと正義の限界』で、ロールズが想定する、あらゆる属性を脱ぎ捨てた自己——「負荷なき自己」と呼びました——を批判しました。私たちは家族や言語や歴史をあらかじめ背負って生まれてきます。正義について考えるとき、その背景をすべて脱ぎ捨てることはできないし、脱ぎ捨てた抜け殻には、何かを大切に思う理由そのものが残らないのではないか。この見方では、正義は共同体が共有する価値や目的についての解釈として、共同体の内側で育つものです。決めるのは抽象的な理性ではなく、歴史を背負った具体的な「私たち」——ただし、その「私たち」の中の少数派はどうなるのか、という難題がついて回ります。

立場3: 完璧な正義を決める必要は、そもそもない

みっつめの立場は、問いの立て方自体をずらします。

経済学者で哲学者のアマルティア・センは、2009年の『正義のアイデア』で、完全に正義にかなった社会の設計図に全員が合意する必要はない、と論じました。歴史上、奴隷制の廃止を求めた人々は、完璧な正義の定義で一致していたわけではありません。それでも「これは明白な不正義だ」という比較の判断は共有できた。必要なのは究極の答えを言い渡す誰かではなく、明白な不正義を見つけて減らしていくための、比較と公共的な議論の仕組みだ、という提案です。

実験室に「無知のベール」を持ち込んだ人たち

ここで一度、哲学の外に出てみます。政治学者のノーマン・フローリッヒとジョー・オッペンハイマーは1980年代後半から、ロールズの思考実験を現実の実験に変えました。参加者を集め、自分がどの所得階層に入るか分からない状態で、グループで討議して所得分配のルールを選ばせたのです。

ロールズの理論に従えば、人々は「最も不遇な人の取り分を最大にする」原理を選ぶはずでした。ところが、アメリカ、カナダ、ポーランドで繰り返された実験の結果は違いました。参加者たちが一貫して選んだのは、「全員に最低ラインを保障した上で、社会全体の平均を最大化する」という、いわば折衷案だったのです。しかも多くのグループは、討議の末にこの選択で合意に達したと報告されています。この結果は1992年の著書『Choosing Justice』にまとめられました。

哲学者が理性から導いた答えと、公平な条件を与えられた人々が実際に選ぶ答えは、必ずしも一致しない。では、正義を「決めた」のはどちらなのでしょうか。

法律が正義を裏切ったとき

逆に、共同体がすでに決めたルールのほうが間違っていたら、誰がそれを覆せるのでしょうか。

冷戦下の東ドイツで、国境警備兵たちはベルリンの壁を越えて西へ逃れようとする人々に発砲しました。当時の東ドイツの法制度のもとでは、それは職務として正当化されていたとされます。しかし1990年のドイツ統一後、彼らは殺人などの罪で法廷に立たされました。「法律に従っただけだ」という弁護に対して裁判所が持ち出したのが、法哲学者グスタフ・ラートブルフが1946年——ナチスの法体験の直後——に定式化した考え方です。実定法(実際に制定されている法律)が正義と耐えがたいほど矛盾するとき、それはもはや法ではない、というものでした。

この「ラートブルフの定式」は、正義の決定権をめぐる不穏な事実を照らし出します。あの兵士たちが従っていた「正義」は、後になって、別の秩序に属する裁判所によって書き換えられました。正義の決定は一度きりでは終わらず、あとから別の「誰か」に覆されうる——歴史はそういう例を確かに含んでいるのです。

いま分かっていること、まだ分からないこと

正義の「中身」について、学問はまだ一つの答えに合意していません。ただ興味深いことに、「決め方」については実証的な知見が積み上がりつつあります。法社会心理学者トム・タイラーの調査研究によれば、人が法に従う主な理由は罰への恐れではなく、法と当局が正統だという感覚です。そしてその感覚は、自分に有利な結果が出たかどうかよりも、手続きが公正で、自分が尊重されて扱われたかどうかに大きく左右されます。中身の合意がなくても、決め方への信頼が社会を回している——これが現在の到達点のひとつです。

ただし、その手続き自体は誰が決めるのか、という一段深い問いは残ったままです。さらに、国境を越える不正義や、まだ生まれていない将来世代への正義には、そもそも「決める場」自体が存在しません。正義論は完成した理論というより、決定権の所在を問い直し続ける営みだと言ったほうが、実態に近いのかもしれません。