同じ年に、同じ国で生まれた二人の赤ん坊。人生の初日、努力も才能もまだ何ひとつ発揮していません。それでも親の学歴と育つ地域が分かれば、二人がどこまで進学するか、統計はある程度の予測をしてしまいます。
生後0日で、道は分かれはじめている
同じ年に、同じ国で生まれた二人の赤ん坊を想像してください。まだ泣くことしかできず、努力も才能も何ひとつ発揮していない、人生の初日です。
ところが教育社会学者は、この時点である程度の予測ができてしまいます。手がかりは本人の資質ではありません。親の学歴と、育つ地域です。日本の教育データを大規模に分析した教育社会学者の松岡亮二は、この国では「生まれ」によって最終学歴が系統的に異なることを示し、日本を「緩やかな身分社会」と表現しました。
これは、私たちが持つもう一つの信念とぶつかります。努力した人が報われるのは当然だ、という信念です。生まれの偶然と、努力の対価。格差はどちらから生まれるのか——この問いには、少なくとも三つの答えが並び立っています。
答え1: 格差は実力と努力の対価である
経済学には人的資本論という考え方があります。教育や訓練を「自分への投資」と見なし、所得の差は身につけたスキルの差の反映だと説明する立場です。
この立場のいちばん強い論拠は、差があるからこそ人が動く、という点でしょう。何を成し遂げても報酬が変わらない社会では、進んで学び、リスクを取り、面倒な仕事を引き受ける理由が薄れます。機械が定型的な仕事を置き換え、高度なスキルへの需要が高まるほど、技能による賃金の差は開きやすくなる——技術の変化から近年の格差拡大を説明する研究も、この系譜に連なります。
格差は不公平の印ではなく、努力と工夫を引き出す仕組みの一部。そう考えれば、問うべきは格差の存在そのものではなく、その大きさと固定化の度合いだ、ということになります。
答え2: 格差は構造が再生産する
社会学者ピエール・ブルデューは、相続されるのはお金だけではないと指摘しました。言葉遣い、本棚の中身、美術館に行く習慣。彼が文化資本と呼んだ、家庭で自然に身につく無形の資産です。学校は一見、誰にでも開かれた公平な選抜装置に見えます。しかしそこで評価される振る舞いや教養は特定の家庭文化と地続きで、結果として学校は格差を打ち消すどころか、世代を超えて受け渡す装置にもなりうる——それがブルデューの見立てでした。
経済学の側からも似た構図が示されています。トマ・ピケティは各国の長期データをもとに、資本収益率が経済成長率を上回る状態(r>g)が続くと、働いて富を築く速度より、すでにある富が増える速度のほうが勝り、相続の重みが増していくと論じました。
答え3: 格差は偶然の増幅である
三つめの立場は、実力でも構造でもなく、偶然に注目します。社会学者ロバート・マートンは1968年、著名な科学者ほど同等の業績でもより多くの評価を集める現象を「マタイ効果」と名付けました。持っている者はさらに与えられる。最初の小さな成功や幸運が次の機会を呼び込み、雪だるま式に差が開いていく——累積的優位と呼ばれる仕組みです。
出発点のわずかな差、たまたまの出会い、景気のよい年に卒業できたかどうか。この立場から見ると、格差の少なくとも一部は「運の複利」であり、本人の手柄とも誰かの陰謀とも言い切れないものになります。
三つの答えは、実のところ排他的ではありません。論争の的になっているのは、どれがどのくらい効いているのかという配合比のほうです。
「親を超えられる」確率は、こう変わった
その配合比を測ろうとする研究から、二つ紹介します。
経済学者ラジ・チェティらは2017年、アメリカで「親より多く稼げるようになった子ども」の割合を世代ごとに推計しました。結果は鮮烈でした。1940年生まれでは約9割が30歳時点で親の所得を上回っていたのに、1980年代生まれでは約半分。コイン投げと変わらない確率まで落ちていたのです。しかも分析によれば、この低下の主因は経済成長が鈍ったことではなく、成長の果実の分配が偏ったことでした。パイの伸びよりもパイの切り分け方が、「親を超えられる」という当たり前だった経験を細らせていたことになります。
もう一つは歴史からの報告です。歴史学者ウォルター・シャイデルは『暴力と不平等の人類史』(2017年)で、石器時代から現代までの格差の歴史をたどり、不穏な結論に達しました。格差を大幅に縮小させてきたのは、総力戦・革命・国家の崩壊・疫病という「四騎士」、つまり大規模な暴力と破局だけだった、というのです。平和で安定した時代には、格差はじわじわと開いていく。20世紀半ばの先進国で格差が縮んだのも、二度の世界大戦という破局のあとだったとシャイデルは指摘します。
いま分かっていること、まだ分からないこと
多くの先進国で、1980年前後を境に所得と富の集中がふたたび進んだこと自体は、長期データの蓄積によって広く共有されています。また、不平等の大きい社会ほど親の経済状況が子に引き継がれやすい傾向——経済学者マイルズ・コラックらのデータをもとに「グレート・ギャツビー・カーブ」と呼ばれるようになった関係——も報告されており、「結果の格差」と「機会の平等」は切り離せないのではないか、という見方が強まっています。
分かっていないことも、はっきりしています。技術の変化、グローバル化、税制や労働組合といった制度のうち、どれがどれだけ格差を広げたのか、その内訳は今も論争が続いています。どの程度の格差までなら社会の活力として働き、どこからが固定化した身分になるのかにも、合意はありません。
教育をめぐる緊張も残ったままです。教育は昔から、格差へのいちばん有望な処方箋と期待されてきました。ところがブルデューの再生産論や松岡のデータが示すのは、教育がときに格差の通り道そのものになる、という現実です。処方箋であるはずのものが、症状を運ぶ管にもなる。教育を本当に「効かせる」条件は何か——この問いは、まだ開いたままです。
そして何より、シャイデルの言う「四騎士」に頼らずに、平和のうちに格差を縮めた例をどれだけ積み上げられるのか。これは学問の問いであると同時に、私たちがこれから答えを書き込んでいく問いでもあります。