恒星も、時間も、物理法則も、あなた自身も存在しない完全な「無」。論理的には、そのほうがずっと簡単だったはずです。それなのに、なぜ宇宙はあるのか——300年前に立てられた一行の問いに、物理学と哲学がいまも正面からぶつかっています。
「何もない」ほうが、ずっと簡単だったはず
夜、ふと考えたことはないでしょうか。宇宙が存在しなかったとしたら、と。恒星も、時間も、物理法則も、それを想像しているあなた自身もない、完全な「無」。うまく思い浮かべられないかもしれませんが、理屈の上では、そのほうがずっと簡単だったはずです。何も存在しなければ、説明しなければならないことも何もないのですから。
1714年、哲学者ライプニッツはこれを一行の問いにまとめました。「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」。無は何かよりも単純で容易であるはずなのに、と彼は続けます。それから300年、この問いには物理学者と哲学者の両方が挑んできました。そして面白いことに、両者は「この問いに答えは近づいているのか」という点で、真っ向から対立しています。
立場1: 物理学は「無からの宇宙」を計算し始めた
物理学の側から見ると、この問いは少しずつ「計算できる問題」に変わってきました。
鍵は、量子論が描き出した真空の姿です。量子論によれば、完全に空っぽに見える真空でも、エネルギーの揺らぎが絶えず生まれては消えています。1973年、物理学者エドワード・トライオンは、宇宙全体がこの真空の揺らぎとして生まれた可能性を『ネイチャー』誌で提案しました。重力のエネルギーを負として勘定に入れると、宇宙の全エネルギーはゼロに近くなりうる。それなら、無からの「借金なしの創生」は物理法則に反しない、という発想です。
1980年代には、アレクサンダー・ビレンキンが「無からの宇宙創生」を量子トンネル効果——粒子が越えられないはずの壁をすり抜ける量子現象——として定式化し、ジェームズ・ハートルとスティーヴン・ホーキングは、宇宙の始まりに境界を仮定しない「無境界仮説」を提案しました。時間や空間そのものが量子論的に立ち上がる筋書きが、少なくとも数式の上では書けるようになったのです。物理学者ローレンス・クラウスが2012年の著書でこの路線を「無からの宇宙」と呼んだとき、それは大きな論争を巻き起こしました。
立場2: その「無」は、無ではない
論争になった理由は、哲学の側の反論がきわめて明快だったからです。
クラウスの本への書評で、哲学者デイヴィッド・アルバートはこう指摘しました。量子的な真空は、無ではない。それは量子場という「何か」が特定の状態にあるものだ。場があり、物理法則があり、量子論の規則が成り立っている——それだけの道具立てが揃った状態を「無」と呼ぶのは、言葉のすり替えではないか、と。
ライプニッツの問いが尋ねているのは、まさにそこです。なぜ量子場があるのか。なぜ物理法則があるのか。なぜ「無からの創生を可能にする規則」そのものが存在するのか。物理学がどれほど過去へ遡っても、説明の出発点には必ず「何か」が残ります。ライプニッツ自身は「すべての事実には十分な理由がある」という原理を頼りに、宇宙の外側に必然的に存在するもの(神)を置いて問いを閉じました。現代の哲学者がその答えをそのまま受け取ることは少なくなりましたが、問いの構造は生きています。哲学者デレク・パーフィットは1998年の論考で、「なぜ何かがあるのか」と「なぜこの宇宙なのか」を切り分けた上で、どんな因果的な説明も自分自身の出発点だけは説明できない以上、これは通常の科学とは種類の違う問いだと論じました。
第三の立場もあります。この問いにはそもそも答えがない——存在は「たまたまそうである」以上の説明を持たない事実だ、と考える立場です。一方でハイデガーのように、この問いを「形而上学の根本の問い」と呼び、問うこと自体の意味を掘り下げた哲学者もいます。答えの手前で、「これはどういう種類の問いなのか」という争いがまだ続いているのです。
あなたの体は「10億分の1の生き残り」でできている
問いの全体は未解決でも、「なぜ何かが残ったのか」の一部に物理学が迫った、印象的な実例があります。
ビッグバン直後の宇宙では、物質と反物質——電荷などの性質が正反対の粒子——がほぼ同数生まれたと考えられています。物質と反物質は出会うと対消滅し、光に変わります。もし完全に同数だったなら、宇宙は光で満たされるだけで、恒星も惑星もあなたも存在しなかったはずです。
ところが、観測される宇宙は明らかに物質でできています。現在の理解では、およそ10億対の粒子と反粒子が消滅するあいだに、物質の粒子がひとつだけ余分に生き残ったと見積もられています。この10億分の1のずれが、現在の宇宙にあるすべての物質の起源です。あなたの体をつくる原子は、文字どおり、宇宙最初期の大量消滅を生き延びたわずかな残りものだということになります。
1967年、ソ連の物理学者アンドレイ・サハロフは、このずれが生じるために必要な3つの条件を理論的に導きました。そのひとつ、粒子と反粒子の振る舞いのわずかな非対称(CP対称性の破れ)は、のちに実験で実際に観測されています。ただし、これまでに観測された破れの大きさでは、10億分の1のずれを説明するにはまだ足りません。「なぜ何かが残ったのか」は、途中まで解けて、途中から先が未解決のままなのです。
いま分かっていること、まだ分からないこと
整理すると、分かってきたのは「何か」がどう展開してきたか、です。ビッグバン以降の宇宙の歴史、物質が生き残るための条件、真空が単なる空っぽではないこと。ここには膨大な観測と理論の蓄積があります。
分かっていないのは、出発点そのものです。無からの創生を記述する理論は複数ありますが、どれも観測による検証には至っていませんし、そうした理論も物理法則の存在自体は前提にしています。そして「なぜ法則があるのか」に観測や実験で答えられるのか——つまり問いのその部分が科学の管轄なのか哲学の管轄なのか、その線引き自体がいまも議論されています。
行き止まりに見えるかもしれません。けれどこの問いの面白いところは、追いかけるほど「説明するとはどういうことか」「存在するとはどういうことか」という、より深い問いが次々に姿を現すところにあります。