道具を使い、言葉を話し、仲間を思いやり、未来を心配する。ずっと「これは人間だけ」と思われてきた特徴が、一つずつ動物にも見つかってきました。では、人間を人間たらしめているものは、結局どこにあるのでしょうか。

「人間だけ」のリストが、少しずつ短くなっている

昔の教科書には、人間を特別にする特徴のリストがありました。道具を使う。言葉を話す。他者の心を読む。過去を思い出し、未来を計画する。仲間を思いやり、鏡に映った自分がわかる——。

ところが動物行動学が進むにつれ、このリストは一つずつ削られてきました。チンパンジーは小枝を加工してシロアリを釣り、カラスは道具を作る手順を覚えます。ゾウやイルカは鏡の中の自分に気づくそぶりを見せます。ミツバチは仲間の踊りから花のありかを学びます。

すると、素朴な疑問が残ります。特徴を一つずつ動物に譲り渡していったあと、人間の手元には何が残るのでしょうか。それとも、最初から「特別」という思い込みのほうが間違っていたのでしょうか。

三つの答え方

この問いには、大きく分けて三つの構えがあります。

一つめは、「違いは種類の差だ」という立場です。 どれだけ動物に似た能力が見つかっても、人間の心にはどこかで質的な断絶がある、と考えます。心理学者トーマス・ズデンドルフは、言語・道具・道徳といった候補を一つずつ検討したうえで、人間だけがもつのは二つの働きだと論じました。一つは、想像した場面の中にさらに別の場面を入れ子のように組み込む力——「もし彼がこう考えていると私が思っていると彼が気づいたら」と、際限なく積み重ねられる想像です。もう一つは、その想像を他者とつなげずにいられない衝動。この二つが組み合わさると、記憶は未来の計画になり、共感は道徳になり、社会の習慣は積み上がる文化になる、というわけです。

二つめは、「違いは程度の差にすぎない」という立場です。 すでにダーウィンが1871年の『人間の由来』で、「人間と高等動物の心の違いは、大きいとはいえ、程度の差であって種類の差ではない」と書いていました。霊長類学者フランス・ドゥ・ヴァールはこの系譜を引き継ぎ、動物に人間的な感情や知性を認めることを頑なに拒む態度を「アンソロデナイアル(人間性否認)」と呼んで批判しました。人間と類人猿は、心の質が違う生き物ではなく、同じ心を違う度合いでもつ別種のサルにすぎない——彼はそう見ていました。

三つめは、そもそも問いの立て方を疑う立場です。 「人間は特別か」という問いは、人間を頂点に置いた物差しで測っているのではないか。コウモリは超音波で世界を描き、渡り鳥は地磁気を感じ、タコは腕ごとに半ば独立した神経系で考えます。どの種も、その生き方に合った意味で「特別」です。人間の言語能力を基準にすれば人間が一番になりますが、反響定位を基準にすればコウモリが一番になる。特別さのランキングそのものが、測る側の都合で決まっているのかもしれません。

どれも、それぞれの一番強いところで見ると説得力があります。だからこの問いは、まだ決着していません。

2歳半の子どもと類人猿に、同じテストを受けさせた

膠着を動かすには、比べ方をそろえる必要があります。2007年、エスター・ヘルマンとマイケル・トマセロらの研究チームは、それを大規模にやってみせました。

彼らは、まだ読み書きも学校教育も受けていない2歳半の子ども、チンパンジー、オランウータンに、まったく同じ認知テストのセットを受けさせました。テストは大きく二種類。一つは、物の数や量、空間、因果を扱う「物理的な世界」の課題。もう一つは、他者から学び、意図を読み、身ぶりで伝え合う「社会的な世界」の課題です。

結果は、きれいに分かれました。物理的な課題では、子どもと類人猿の成績はほとんど変わりませんでした。ところが社会的な課題では、子どもが約74%正解したのに対し、二種の類人猿はどちらも約33%どまり。つまり、この時期の人間の子どもは「一般的に賢い」わけではなく、社会的な学びに関してだけ、際立った力をもっていたのです。

トマセロらはここから「文化的知性仮説」を唱えました。人間を特別にしているのは、頭のよさそのものではなく、他者から正確に学び、他者に教え、知識を集団で受け渡していく——その一点に特化した能力ではないか、と。一人ひとりの人間は、それほど賢くありません。特別なのは、賢さを世代を超えて積み上げていく仕組みのほうだ、という見方です。

近年はこの「積み上げる文化」でさえ、動物に前例が指摘されています。ザトウクジラの歌は世代をまたいで複雑さを増減させ、伝書バトは互いに学び合って飛行ルートを少しずつ改良します。2024年にトマス・モーガンとマーカス・フェルドマンは、累積そのものは人間の専売ではなく、人間文化の特異点はむしろ「際限なく広がっていく開かれ方(open-endedness)」にあると論じました。動物の文化がいくつかの行動で頭打ちになるのに対し、人間の文化は衣服から料理、物語、数学へと、限りなく新しい領域へ広がり続ける、というのです。

いま分かっていること、まだ分からないこと

はっきりしてきたのは、「人間だけがもつ単一の魔法の能力」は見つかっていない、ということです。かつて決定的とされた特徴は、たいてい動物にも芽が見つかりました。差があるのは、多くの場合その「組み合わさり方」や「度合い」のようです。

まだ分からないのは、その差が最終的に「種類の差」に見えるのか「程度の差」に見えるのか、です。入れ子の想像力にせよ、社会的な学びにせよ、開かれた文化にせよ、それらが連続的な進化の果てに量から質へ転じたのか、それとも人間が勝手に引いた線にすぎないのか——研究者の間でも評価は割れています。

そしてこの問いは、これから思いがけない方向から試されます。もし人間の特別さが「積み上げ、開かれていく文化」にあるのなら、それを桁違いの速さで模倣し始めた人工知能を、私たちはどう位置づければいいのでしょう。動物との境界を測りかねているうちに、私たちは自分でつくったものとの境界も測らなければならなくなりました。「人間は特別か」という問いは、上を向いても下を向いても、まだ答えを待っています。