コイントスは公平さの代名詞です。ところが35万回以上のコインを実際に投げて数えた研究では、コインは投げる前に上を向いていた面と同じ面で、少しだけ高い確率で着地しました。いちばん「偶然」らしい出来事が、実は物理で決まっているのだとしたら——私たちが偶然と呼んでいるものは、いったい何なのでしょう。

いちばん公平なはずのものが、少しだけ傾いている

コイントスは、公平さの代名詞です。試合の先攻後攻も、迷ったときの決断も、「表か裏か」に委ねれば恨みっこなし——そう信じられてきました。ところが2023年、研究者たちが35万757回という気の遠くなる回数のコインを実際に投げて数えたところ、コインは投げる前に上を向いていた面と同じ面で、50.8%というわずかに高い確率で着地しました。偶然の女神は、ほんの少しだけ、始まりの側にひいきをしていたのです。

これは統計学者パーシ・ダイアコニスらが2007年に立てた予言の確認でした。彼らの見立てでは、コインは宙で回転軸をかすかにふらつかせ、そのぶん最初に上を向いていた面が上にある時間が長くなる。つまりコイントスの出目は、神秘的な「偶然」ではなく、指のはじき方と回転という物理で決まっている——ただ、私たちがそれを追いきれないだけだ、というわけです。

ここで妙な問いが立ち上がります。もしコインの出目がもともと物理で決まっているのなら、私たちが「偶然」と呼んでいるものは、いったい何なのでしょう。世界の側にある本物のでたらめさなのか、それとも、計算しきれないことにつけた別名にすぎないのか。

立場1: 偶然とは、私たちの無知の別名である

ひとつめの立場は、偶然を「人間の側の事情」と捉えます。世界そのものは因果の連鎖で厳密に決まっていて、偶然に見えるのは、私たちが原因を全部は知らないからだ、という見方です。

これを極限まで突き詰めたのが、天文学者ピエール=シモン・ラプラスでした。彼は1814年の著作で、ある「知性」を想像します。いまこの瞬間の全粒子の位置と、それらに働くすべての力を知り尽くした知性がいれば、その知性にとって未来も過去も現在と同じくらい見通せる——不確かなものは何ひとつ残らない、と。のちに「ラプラスの悪魔」と呼ばれたこの空想では、偶然の居場所はどこにもありません。

数学者アンリ・ポアンカレも、1908年の著作で「偶然は私たちの無知の尺度にすぎない」と書きました。この立場に立つと、確率とは世界の性質ではなく、知識が足りない私たちが賭けをするときの「確信の度合い」ということになります。実際、確率を「合理的な人が抱く信念の度合い」と解釈する主観説(ベイズ主義)は、今日の統計学でも有力な立場のひとつです。偶然は世界にではなく、世界を見る私たちの目の側にある、という考え方です。

立場2: 偶然は、世界の側に実在する

ふたつめの立場は、偶然を世界そのものの性質として認めます。すべてを知る知性を持ち出さなくても、偶然は現に起きている、というわけです。

19世紀の数学者・哲学者アントワーヌ・クールノーは、偶然を「独立した二つの因果系列の出会い」と定義しました。屋根から瓦が落ちる時間の流れと、あなたが通りを歩く時間の流れは、それぞれには理由があっても互いに無関係です。その二つがたまたま同じ一点で交わったとき、私たちはそれを偶然と呼ぶ。個々の連鎖が決まっていても、連鎖どうしの出会いには理由がない——だから偶然は、無知で片づけられない客観的なものだ、という主張です。確率を「長い試行のなかで現れる頻度」や「起こりやすさという物の性質」として捉える立場(頻度説・傾向性説)も、この系譜に連なります。

このふたつの立場は、200年以上たったいまも決着していません。そこへ、話を根こそぎ変えかねない知見が20世紀に加わりました。

決定論の中から湧く偶然、底が抜ける偶然

まず、立場1の側に思わぬ落とし穴が見つかりました。ポアンカレ自身が気づいていたのですが、たとえ世界が完全に決まっていても、初期条件のごくわずかな差が結果に巨大な差を生む系では、予測は事実上不可能になります。

これを鮮やかに示したのが気象学者エドワード・ローレンツです。1961年、彼が気象モデルの数値を小数点以下わずかに丸めて計算し直したところ、予報はまったく別物になりました。彼は1963年の論文でこの現象を報告し、1972年の講演には「ブラジルの一羽の蝶の羽ばたきは、テキサスで竜巻を引き起こすか」という題がつきます。世に言う「バタフライ効果」です。ここでの教訓は重いものでした。決定論と予測可能性は、同じではない。ラプラスの悪魔でない私たち有限な存在にとって、決まっている世界と、でたらめな世界は、しばしば見分けがつかないのです。

もうひとつは、立場2の側からの、もっと深い一撃です。量子の世界では、同じ条件の粒子がいつ崩壊するかといった問いに、原理的な答えがないように見えます。この「隠れた要因があるだけでは」という疑いに、物理学者ジョン・ベルが1964年、決着をつける形の不等式を与えました。もし目に見えない要因が結果をこっそり決めているなら、実験結果はある限界を超えられない——その限界を実験で破ってみせればよい、というわけです。アラン・アスペ、ジョン・クラウザー、アントン・ツァイリンガーは、もつれた光子を使ってこの不等式が実際に破れることを示し、2022年のノーベル物理学賞を受けました。多くの物理学者はこれを、自然の底には汲み尽くせない偶然があることの証拠と読みます。ただし正確には、破れが排除したのは「局所的に隠れた要因」であって、あらゆる決定論が消えたわけではない点は、公平に付け加えておくべきでしょう。

いま分かっていること、まだ分からないこと

はっきりしているのは、偶然という言葉が少なくとも二つの別のものを指している、ということです。ひとつは、原因はあるのに私たちが追えないことから来る偶然(コインやバタフライ効果)。もうひとつは、追う相手がそもそも存在しないように見える偶然(量子の世界)。前者が「無知の偶然」なら、後者は「世界の偶然」の有力な候補です。

そして、私たちはどちらの偶然もひどく見誤ります。ニュージャージーで宝くじに二度当たった女性が現れたとき、ある統計家は確率を約17兆分の1と評しました。けれど別の統計家たちは、世界中の膨大な買い手と長い年月を勘定に入れれば、「誰かが数か月のうちに二度当てる」ことはむしろ起こって当然だと見積もっています。ダイアコニスとモステラーはこれを「本当に大きな数の法則」と呼びました。試行の数が十分に多ければ、どれほど途方もない偶然も、いつか必ず顔を出す、と。奇跡に見えるものの多くは、私たちが自分ひとりの目線からしか数えていないことの産物なのです。

分からないまま残っているのは、いちばん根っこの問いです。世界の底にあるのは、隠れた秩序なのか、それとも本物の偶然なのか。この問いは、確率とは何かをめぐる解釈の対立として、いまも科学哲学の現役のテーマであり続けています。おもしろいのは、コルモゴロフが1933年に確率論を数学として完成させたとき、彼は「確率とは何か」という問いにはあえて答えなかったことです。意味を棚上げしたまま、私たちは偶然を精密に計算できる。使いこなせているのに、正体は分からない——偶然は、そういう相手なのです。