家族の写真も、ただの砂嵐のようなノイズも、機械は同じ「メガバイト」で数えます。1948年、シャノンは意味を切り捨てることで情報を量れるものに変えました。そして物理学は、1ビット消すたびに熱が生まれることを実測してしまいます。捨てられた「意味」は、どこへ行ったのでしょうか。
大切な写真と、ただの砂嵐が同じ「量」になる
スマートフォンの容量が足りなくなって、写真を整理したことはないでしょうか。画面に並ぶのは「3.2MB」といった数字です。家族の記念写真も、ポケットの中でうっかり撮れていた真っ暗な1枚も、砂嵐のようなノイズ画像も、機械は同じ物差しで数えます。あなたにとっての価値は天と地ほど違うのに、「量」としては同じなのです。
それどころか、情報理論の標準的な数え方では、でたらめなノイズは美しい風景写真より「情報量が多い」ことにさえなります。ファイル圧縮に心当たりがあれば、感触はつかめるはずです。規則的なデータはよく縮み、ノイズだらけのファイルはほとんど縮まない。この「縮まなさ」が情報量の正体に近いのだとしたら、私たちの直感とはずいぶん違う何かが「情報」と呼ばれていることになります。
私たちは毎日この言葉を使い、「ギガ」という単位で情報を買ってさえいます。それなのに「では情報とは何か」と問われると、意味のことなのか、データのことなのか、うまく答えられません。この問いは、20世紀の科学が意味をあえて「捨てる」ことで前進し、やがて情報が熱や物質と地続きだという事実に行き着いた、現在進行形の問いです。
意味を捨てた日——1948年のシャノン
1948年、ベル研究所の数学者クロード・シャノンは「通信の数学的理論」という論文を発表しました。冒頭で彼は、通信の根本問題とは「ある地点で選ばれたメッセージを、別の地点で再現すること」だと定め、こう言い切ります。メッセージが持つ意味という側面は、工学の問題とは無関係である——。
この切り捨てが、情報を初めて「量れるもの」にしました。シャノンの定義では、情報量とは受け手の不確かさがどれだけ減るかです。コイン投げの結果を知れば1ビット。起こる確率が低い知らせほど、届いたときに解消される不確かさは大きい。「明日も太陽が東から昇る」という予報に情報はほとんどなく、「真夏の東京に雪が降った」という一報には大量の情報がある、というわけです。冒頭のノイズの逆説も、ここから素直に出てきます。次の画素がまったく予測できないノイズは、1画素ごとに最大の不確かさを解消するので、この定義のうえでは情報の塊なのです。
シャノンは、メッセージ源が持つ平均的な不確かさを「エントロピー」と名づけました。熱力学で乱雑さを表してきた由緒ある量と同じ名前です。この命名をめぐっては、数学者フォン・ノイマンが「誰もエントロピーの正体を知らないから、議論で必ず有利に立てる」と勧めたという逸話が広く流通していますが、出どころは工学者マイロン・トリバスの回想で、シャノン自身は1982年のインタビューでフォン・ノイマンの関与に否定的でした。情報理論の看板概念が、誤伝かもしれない逸話とともに広まっている——それ自体がどこか示唆的です。
確かなのは、意味を捨てたからこそ理論が成功したことです。データ圧縮の理論限界、雑音の中でも誤りなく送れる通信速度の上限。シャノンはそれらを定理として証明し、その土台の上に、スマートフォンもインターネットも建っています。
悪魔が示したもう一つの顔——情報は物理である
ところが情報には、確率の数学に収まらないもう一つの顔があります。発端は1867年、物理学者マクスウェルが手紙に書いた思考実験でした。
気体の入った箱を仕切りで二つに分け、仕切りの小窓を開け閉めする小さな存在を置きます。この存在は分子の速さを見分けられ、速い分子だけを右室へ、遅い分子だけを左室へ通す。すると外から仕事を加えていないのに、右は熱く、左は冷たくなっていきます。「放っておけば温度差はならされていく一方だ」という熱力学第二法則の、あからさまな違反です。ちなみに敬虔なキリスト教徒だったマクスウェル自身はこれを「悪魔」とは呼んでいません。その名は、のちに物理学者ウィリアム・トムソン(ケルヴィン)が付けたものです。
この「マクスウェルの悪魔」の祓い方は、物理学者を1世紀以上悩ませます。1929年、シラードは悪魔の力の源が「分子がどちらにいるか」という知識——今日の言葉で言えば情報——であることを見抜き、情報と熱力学の帳簿がつながっていることを初めて明示しました。1961年には、IBMのランダウアーが決定的な原理を示します。情報を1ビット消去するとき、コンピュータは必ず最低限の熱を環境に捨てなければならない。その量はkT ln 2、室温では1ジュールを1兆分の1にし、さらに10億分の1にしたほどの、極微の熱です。そして1982年、ベネットがとどめを刺しました。悪魔は分子を観測するたびに結果をメモリに記録します。働き続けるには、いっぱいになったメモリをいつか消さなければならない。その消去で発生する熱が、悪魔の稼いだ分をちょうど打ち消してしまうのです。観測ではなく忘却にこそ代金がかかる、という逆転の解決でした。もっとも、この悪魔祓いの論理は循環していると批判する科学哲学者もいて、決着の付き方には今も議論が残っています。
ランダウアーは1991年、自らの信念を論文の題名に刻みました。「情報は物理的である」。情報は幽霊のような抽象物ではない。紙のインク、シリコンの電荷、脳のシナプス——必ず物理的な担い手に刻まれており、物理法則を免れない、と。
「忘れる」ことの熱が、実際に測られた
ランダウアーの原理は、半世紀のあいだ理論上の話でした。1ビットの消去が生む熱はあまりに小さく、測る手段がなかったのです。
それを実測したのが、2012年に『ネイチャー』誌に発表されたベルーたちの実験です。研究チームは、水中に浮かぶ微粒子1個をレーザーの罠で捕まえ、二つの谷を持つエネルギーの地形の中に置きました。粒子が左の谷にいれば0、右の谷にいれば1。世界最小級の1ビットメモリです。そして、どちらの谷にいたかにかかわらず粒子を決まった側へ追い込む——つまり履歴を消去する——操作を繰り返し、そのたびに出る熱を測りました。結果は、操作をゆっくり行うほど、発熱がランダウアーの予言した下限kT ln 2へ近づいていく、というものでした。予言から51年後、忘却の最低料金は顕微鏡の下で実際に確かめられたのです。
あなたがスマートフォンで写真を1枚消すとき、そこでは数千万個のビットが消去され、原理が要求する分をはるかに超える熱が放出されています。どれほど技術が進んでも、情報を消し続ける限り、コンピュータの発熱を完全にゼロにはできません。情報は、熱く冷たいこの世界の住人なのです。
この流れをさらに逆立ちさせた物理学者もいます。ホイーラーは1989年、「it from bit」という標語を掲げました。物質(it)のほうがビット(bit)から生じる——宇宙の根底にあるのは粒子でも場でもなく、観測という行為が引き出す「はい/いいえ」の答えの集積だという仮説です。多くの物理学者はこれを思弁の域とみなしていますが、情報を宇宙の脇役から主役へ引き上げようとする試みは、量子情報科学の中で今も続いています。
いま分かっていること、まだ分からないこと
分かっていることを整理しましょう。意味を捨てたシャノンの理論は、完全に機能しています。圧縮も通信も暗号も、その定理が引いた限界の内側で動いています。そして情報は物理と地続きです。1ビットの消去に熱的な代金がかかることは、理論だけでなく実験でも確かめられました。
分かっていないのは、捨てたはずの「意味」の側です。同じ1ビットでも、手術の成否を告げる1ビットと、コイン投げの1ビットでは、私たちにとっての重みがまるで違います。この違いを扱える数学は、まだ存在しません。DNAの塩基配列は「生命の情報」と呼ばれますが、それを読み取る細胞の仕組みから切り離したとき、そこに情報はあると言えるのか。情報は世界の側に実在するのか、それとも受け手との関係の中にしか存在しないのか。シャノンから80年近くたった今も、この問いの芯は手つかずのまま残っています。
次にスマートフォンが容量不足を知らせてきたら、少しだけ手を止めてみてください。あなたが消そうとしているものを、機械はビットで数え、物理学は熱で数えます。けれど、どの写真を残すかを決めるとき、あなたが数えているのは意味のほうです。三つの数え方が「情報」というひとつの言葉に同居していて、その関係を誰もまだ説明できていない——この問いは、あなたのポケットの中で、毎日続いています。