日本の法律には「国民は健康の増進に努めなければならない」と書かれています。では、努力を怠って病気になった人は責められるべきなのでしょうか。統計は、寿命の一部が本人の選択の届かない場所——職階や住む地区——で決まっていることを示し続けています。

健康であることは、この国では努力義務である

日本の法律に、こんな条文があります。「国民は、健康な生活習慣の重要性に対する関心と理解を深め、生涯にわたって、自らの健康状態を自覚するとともに、健康の増進に努めなければならない」。2002年に成立した健康増進法の第二条、見出しは「国民の責務」です。

健康であることは、この国では法律上の努力義務なのです。とすると、努力を怠って病気になった人は、責められてよいのでしょうか。たばこをやめない親、健診の案内を開封もしない自分。「自業自得でしょう」という言葉は、日常会話でも医療費の議論でも、すぐ口をついて出ます。その一方で、「病気は本人のせいではない」と言い切ってしまうと、今夜の一杯を我慢する理由のほうが揺らぎ始めます。健康のうち、どこまでが本人の持ち分なのか。この線引きは、考えるほど難しい問題です。

リスクを選ぶのは大人の権利だ、という言い分

自己責任論は、しばしば冷たさの表現として語られますが、その芯には真面目な倫理があります。19世紀の哲学者ジョン・スチュアート・ミルは、主に本人にしか関わらない事柄について、他人や国家が本人の選択に割り込むべきではないと論じました。自分の人生の設計がその人にとって最善なのは、それが客観的に優れているからではなく、「その人自身のやり方だから」だ——と。深夜のラーメンも、酒も、危険な登山も、リスクを承知で選ぶのは大人の権利であり、その帰結を本人のものとして扱うことは、突き放しではなくむしろ一人前の人間への敬意である。この立場はそう考えます。

経済の言葉に翻訳することもできます。不健康の帰結をすべて社会が引き受けるなら、節制して予防に励む理由は薄れていく。行動の結果が本人に返る仕組みは、公平の問題であると同時に、予防への動機づけを保つ装置でもあります。

この立場の急所は、結論ではなく前提のほうにあります。「選択」と呼ばれているものは、どこまで本人のものなのか。生まれた家、住む地域、働き方が選択肢の幅を最初から決めているのだとしたら、帰結だけを本人に返すのは公平なのか。そこを突いたのが、ある大規模調査でした。

役所の中に、健康の階段があった

1967年、ロンドンで男性公務員1万7500人あまりを追跡する調査が始まりました。ホワイトホール研究と呼ばれるこの調査の対象は、極貧も失業もない、雇用の安定したオフィスワーカーばかりです。ところが10年の追跡で見えたのは、職階が一段下がるごとに死亡率が階段状に上がる勾配でした。最下層の職階の男性は、最上層の高級官僚に比べて死亡率がおよそ3倍。しかも疫学者マイケル・マーモットらの分析では、喫煙・血圧・コレステロールといった既知のリスク要因を統計的に差し引いても、心血管疾患による死亡の格差のうち説明できたのは多くて4割ほどでした。生活習慣の差では、説明がつかないのです。

貧困が健康を壊すという話なら、驚きはなかったかもしれません。ホワイトホールが示したのは、飢えも失業もない集団の内部でさえ、組織の中の位置そのものが寿命に刻まれるという事実でした。マーモットはその背後に、仕事の裁量権やストレスといった要因を見ています。この系譜の研究はやがて、マーモット自身が委員長を務めたWHOの委員会による2008年の報告書「Closing the gap in a generation(一世代のうちに格差をなくす)」に結実します。健康を左右するのは医療や生活習慣だけでなく、人が生まれ、育ち、働き、老いる条件——「健康の社会的決定要因」だという宣言です。報告書は、グラスゴーの12キロしか離れていない2つの地区で、男性の平均余命が54歳と82歳、28年も開いていた例を挙げました。この54という数字自体は、のちに算出時期や地区の特殊事情を映した誤解を招くものだと指摘されていますが、同じ都市の中に大きな寿命の差があること自体は動いていません。

もっとも、この立場にも急所はあります。構造がすべてを決めるなら、環境に恵まれないまま禁煙に成功した無数の人たちの主体性はどう説明するのか。「どうせ環境のせいだ」という諦めは、それ自体が人から変わる力を奪いかねません。そして環境が原因なら環境を変えればよいはずですが、その成績表は意外な形をしていました。

説教はほとんど効かず、値札は効いた

日本は2008年度から、通称「メタボ健診」——特定健診・特定保健指導を始めました。40〜74歳を対象に腹囲などを測り、基準を超えた人に専門職が減量指導を行う制度です。腹囲の基準は男性85センチ。ということは、この線のすぐ上で指導対象になった人と、すぐ下で対象外になった人はほとんど同じ体型のはずで、両者を比べれば制度の因果効果を測れます。京都大学の福間真悟らは2020年、約7万5000人の男性の健診データでこの比較を行いました。結果は、対象と判定された人の翌年の体重は平均0.3キロ減、腹囲は0.3センチ減。血圧・血糖・脂質にいたっては、改善が確認できませんでした。そもそも対象者のうち実際に指導を受けた人は16%にとどまります。本人の意志に働きかける健康政策は、少なくともこの制度設計では、ほとんど数字を動かせていなかったのです。

一方、本人ではなく環境の側に手を入れた国があります。メキシコは2014年、砂糖入り飲料に1リットルあたり1ペソの税をかけました。課税対象の飲料の購入は初年度に平均6%減り、12月には12%減。代わりにボトル入りの水など非課税飲料の購入が4%増えました。イギリスはさらに一捻りして、2016年に「2年後から糖分の多い飲料に課税する」と予告します。狙いは消費者ではなく、メーカーの行動でした。各社は施行前に競って配合を変え、砂糖が課税基準を超える飲料の割合は、発表がなかった場合の予測49%に対して、実際には15%まで下がりました。消費者は我慢すらしていません。棚に並ぶ飲み物の中身が、静かに入れ替わっただけです。

個人の意志に訴える介入は、高くつくわりに効果が薄い。価格や製品構成、初期設定を変える介入は、しばしば静かに、大きく効く。健康政策の実証研究は、おおむねこの方向を指し続けています。

効く介入ほど、静かに自由に触れる

しかし、ここで最初の問いが戻ってきます。環境を変える介入が効くのだとすれば、それは無数の人の選択を、本人の知らないところで設計し直すことでもあるからです。行動経済学者リチャード・セイラーと法学者キャス・サンスティーンは、選択肢を禁じず、経済的な負担も大きく変えずに行動を望ましい方向へ導く仕掛けを「ナッジ」と呼び、自由と両立するパターナリズム——本人の利益のための介入——として擁護しました。それでも批判は残ります。気づかれないように行動を導くことは、正面から禁止するより本当に誠実なのか。ミルの言う「自分のやり方」で生きる価値は、そこで目減りしていないか。

砂糖税には別の論点もあります。所得の低い世帯ほど支出に占める飲料の割合が高く、税負担は逆進的になりがちです。ただしメキシコでは、購入を最も大きく減らしたのも低所得世帯でした(初年度平均9%減)。負担が重くのしかかる場所に、健康上の恩恵も集中する。これを弱者への押しつけと見るか、最も救われる人への配慮と見るかで、同じ政策の評価は正反対に割れます。

いま分かっていること、まだ分からないこと

分かっていることを並べると、こうなります。健康は社会的な勾配を持ち、その勾配は生活習慣だけでは説明できない。これはホワイトホール以降、半世紀の疫学が繰り返し確認してきた、この分野で最も頑健な発見のひとつです。そして集団の行動を動かすのは、個人への説得よりも、価格や製品や初期設定の変更である。ここまでは、かなりの確度で言えます。

分かっていないことも、はっきりしています。社会的な位置が体に刻まれる生物学的な経路——慢性ストレスなのか、裁量権のなさなのか、幼少期の環境なのか——は、まだ解明の途中です。そして「効く介入のうち、どこまでが許されるのか」は、データがいくら積み上がっても自動的には答えの出ない、価値の問いとして残り続けます。効果があることと、してよいことは、別の問題だからです。

次に健診の案内が届いたら、あるいは誰かの病気を「自業自得」と言いそうになったら、少しだけ立ち止まってみてください。その人の食卓に何が並ぶかを決めてきたのは、本人の意志だけだったのか。逆に、すべてを社会のせいにした瞬間、自分が今夜の一杯を断る理由はどこに残るのか。あなたの寿命の一部がもし職階や住所で決まっているのだとしたら、その分の責任は、いったい誰が引き受けるべきなのでしょうか。