密林に沈むマヤの神殿、草原に立ち並ぶモアイ像。遺跡を前にすると、私たちはつい「なぜ滅んだのか」と考えます。けれどこの問いには、ひとつの前提がひそんでいます——文明は、放っておけば続くはずだ、という前提です。
繁栄の頂点で、終わりを知らなかった人たち
密林に沈むマヤの神殿、草原に立ち並ぶモアイ像。遺跡を前にすると、私たちはつい「なぜ滅んだのか」と考えます。けれどこの問いには、ひとつの前提がひそんでいます——文明は、放っておけば続くはずだ、という前提です。
考古学が掘り出してきたのは、むしろ逆の風景でした。高度に組織された社会が、数十年から百年ほどのあいだに解体していく。そうした出来事は、地域も時代も変えながら、歴史のなかでくり返し起きています。しかも残された記録を見るかぎり、当事者の多くは直前まで、自分たちの世界が終わりうるとは考えていなかったようなのです。彼らに見えていなかったものは、何だったのでしょうか。
立場1: 環境が文明を支えきれなくなる——エコサイド説
もっともよく知られた説明は、地理学者ジャレド・ダイアモンドが2005年の著書『文明崩壊』で展開したものです。森林の伐採、土壌の流出、水の枯渇。社会が自らの足元の環境を使い尽くしたところに干ばつなどの気候変動が重なり、社会がうまく対応できなかったとき、文明は支えを失う。ダイアモンドはこの自滅的な環境破壊をエコサイドと呼び、イースター島やマヤ、グリーンランドのノルウェー人入植地などを事例に挙げました。
この立場の強みは、物的証拠と結びつきやすいことです。花粉の分析からは森が消えた時期が、湖底の堆積物からは干ばつの時期が読み取れます。環境の変化は、地層に署名を残すのです。
立場2: 文明は自らの複雑さに押しつぶされる
一方、考古学者ジョセフ・テインターが1988年の著書 The Collapse of Complex Societies(『複雑な社会の崩壊』・未邦訳)で示したのは、外からの打撃ではなく内部の構造に注目する見方です。
テインターによれば、社会とは問題解決の装置です。問題が起きるたびに、役職を増やし、制度を重ね、インフラを広げる——つまり複雑さを増すことで対処します。ところが複雑さには維持コストがかかり、しかも解きやすい問題から先に解かれていくため、複雑さを一段増やすごとに得られる利益は小さくなっていきます。経済学でいう限界収益の逓減(追加投資の見返りがだんだん減っていくこと)です。やがて維持の負担が利益を上回ったとき、社会は外からの打撃——それ自体は昔から何度もあったはずの打撃——を吸収できずに崩れる。テインターは西ローマ帝国やマヤをこの枠組みで分析しました。
この見方の強みは、「なぜその打撃が、そのときだけ致命傷になったのか」に答えられることです。干ばつも侵入も疫病も、繁栄期の社会は何度も乗り越えてきました。変わったのは打撃の強さではなく、受け止める側の体力だ、というわけです。近年では、ピーター・ターチンらの研究グループが、エリート層の過剰な膨張や大衆の生活水準の低下、国家財政の悪化といった内部要因を数値化し、政治的不安定の波を定量的に説明しようとする試みも進めています。
立場3: そもそも「崩壊」など起きていない
三つめの立場は、問いの土台そのものを揺さぶります。考古学者パトリシア・マカナニーとノーマン・ヨフィーが編んだ論集 Questioning Collapse(『崩壊を問う』・未邦訳、2010年)は、ダイアモンドが「崩壊」と呼んだ事例を一つずつ検証し、多くの場合に起きたのは絶滅ではなく再編だったと論じました。
たしかにマヤの壮麗な都市は放棄されました。しかしマヤの人々自身は消えていません。その子孫は今もユカタン半島や周辺の高地に暮らし、マヤ系の言語を話し続けています。滅んだのは「人々」ではなく、王朝と神殿建設の事業——つまり支配の仕組みだったのではないか。だとすれば「崩壊」とは王や神官の側から見た物語にすぎず、農民の目には、重い支配がいなくなっただけの日常が続いていたのかもしれない。この立場は、そう問いかけます。
同じ島から、正反対の物語が生まれた
この論争がどれほど生々しいかは、イースター島をめぐる攻防に凝縮されています。
ダイアモンドの描いたイースター島は、エコサイドの象徴でした。島民はモアイ像を運ぶために木を切り続け、森を失い、土地が痩せ、社会は争いと飢えのなかで崩れていった——という物語です。
ところが考古学者テリー・ハントとカール・リポは、同じ島を調査して別の結論に達しました。森が消えた大きな要因は、人間とともに島へ渡ったナンヨウネズミがヤシの実を食べ、森の再生を止めたことではないか。モアイ像は木のそりで引きずらなくても、少人数がロープで左右に揺らしながら「歩かせて」運べる——彼らは実物大のモアイのレプリカでこれを実演してみせました。そして人口が激減したのは、ヨーロッパ人の到来後、疫病と奴隷狩りが島を襲ってからではないか。彼らの目に映るイースター島民は、愚かな自滅者ではなく、痩せた土地を工夫しながら耕し続けた、したたかな生存者たちでした。
同じ島、同じ地層から、「自滅」と「適応」という正反対の物語が組み立てられている。崩壊の研究は決着済みの歴史ではなく、いまも証拠が提出され続けている法廷なのです。
湖の底に残された、干ばつの署名
一方で、気候が果たした役割については、証拠が着実に積み上がっている場所もあります。舞台はマヤ文明です。
1995年、デイヴィッド・ホデルらの研究チームは、ユカタン半島のチチャンカナブ湖の湖底堆積物を分析し、マヤ南部低地の都市が次々と放棄された時期(紀元800〜1000年ごろ)に深刻な干ばつが起きていたことを示す物的証拠を、初めて提示しました。さらに2018年には、同じ湖の石膏——干ばつで湖水が濃縮したときにできる鉱物——に閉じ込められた当時の水の同位体を分析するという方法で、この時期の年間降水量が現在より41〜54パーセント、最悪期にはおよそ70パーセントも少なかったとする推定が『サイエンス』誌に発表されています。
千年前の雨の量が、湖の底からここまで具体的に復元される。ただし研究者たちは、干ばつを「答え」とは呼びません。同じ干ばつの下でも都市や地域によって運命は分かれており、なぜある社会は乗り越え、ある社会は倒れたのかは、気候のデータだけでは説明できないからです。引き金と原因は、別のものなのです。
いま分かっていること、まだ分からないこと
現在の研究者の多くが同意するのは、単一の原因で崩壊を語る時代は終わった、ということです。考古学者エリック・クラインは、紀元前1200年ごろに地中海東部の諸文明——エジプト、ヒッタイト、ミケーネなど——が相次いで衰退した「後期青銅器時代の崩壊」を、干ばつ、地震、反乱、交易路の寸断といった複数の失敗が連鎖する、システム全体の崩壊として描きました(邦訳『B.C.1177』)。交易で緊密に結ばれていたことそれ自体が、一つの地域の危機を全体へ波及させた可能性があるといいます。
分かっていないのは、打撃から立ち直る力——レジリエンスの条件です。なぜある社会は危機を制度の工夫で乗り切り、別の社会は崩れるのか。崩壊は事前に予測できるのか。そして過去の事例はどれも地域的な文明でしたが、現在の人類は史上初めて、地球全体でひとつの相互依存ネットワークを構成しています。過去の崩壊から現代への教訓をどこまで引き出せるのか——それ自体が、いま真剣に争われている問いです。