サビに入る、その一歩手前。まだ何も起きていないのに、うなじのあたりがぞくりとする。音楽は物理的には空気の振動にすぎません。なのに、その振動のパターンが、大の大人を車の中で泣かせることがある。なぜ、ただの音の並びが、これほど心を動かすのでしょうか。

いちばん身近なのに、いちばん説明しにくい

好きな曲のサビが来る、その直前。まだ音は鳴っていないのに、体のほうが先に反応して、鳥肌が立つ。この「ぞくっ」とする感覚には名前があって、フリソン(frisson、美的な戦慄)と呼ばれます。ある調査では、半数以上の人がこれを経験すると報告されています。

不思議なのは、この瞬間には何も起きていないことです。誰かに触れられたわけでも、危険が迫ったわけでもない。ただ「次にこういう音が来そうだ」という予感だけで、体が動いてしまう。

音楽は、突きつめれば空気の圧力の変化にすぎません。鼓膜を揺らす、周期的な振動のパターンです。そのパターンが、悲しくもないのに涙を誘い、疲れているのに立ち上がらせ、二十年前の夏を一瞬で連れ戻す。栄養にもならず、敵から身を守ってもくれないのに、なぜこれほど深く心に食い込むのか。私たちはこの問いに、まだきれいな答えを持っていません。

対立軸: 音の中にあるのか、私たちの中で起きるのか

音楽が心を動かすと言うとき、その「感情」はどこにあるのでしょうか。ここで大きく二つの見方が対立します。

ひとつめは、形式主義と呼ばれる立場です。音楽の価値は、音そのものの構造――旋律や和声の組み立て方――の中にあり、感情はそこに聴き手が読み込むものだ、と考えます。音楽評論家エドゥアルト・ハンスリックは1854年の『音楽美論』で、音楽は喜びや悲しみといった感情を表現するものではなく、その本質は「動く音の形式」そのものにあると主張しました。近い立場をとる哲学者ピーター・キヴィは、音楽は悲しみを「表出する」ことはできても、聴き手の中に本物の悲しみを「引き起こす」わけではない、と論じます。葬送曲は悲しげに響きますが、それは垂れた表情のイヌの顔が悲しげに見えるのと同じで、私たちが実際に悲しくなっているとは限らない、というわけです。

ふたつめは、喚起説(arousal theory)です。いや、音楽は実際に私たちの中で感情を起こしている、と考えます。音楽学者レナード・マイヤーは1956年の著書で、音楽の情動は「反応しようとする傾向が妨げられたとき」に生まれると論じました。次に来るはずの音が引き延ばされ、期待が宙づりにされる。その裏切りと解決が、緊張と弛緩として体験される、と。哲学者ジェニファー・ロビンソンはさらに踏み込んで、音楽はまず身体を直接ざわつかせ、聴き手はそのあとで「これは悲しみだ」と名前を貼るのだ、と主張します。

どちらが正しいかは、まだ決着していません。形式主義は「感じているつもりの感情」と「本物の感情」を混同していないか、と喚起説に問いかけます。喚起説は、では葬送曲を聴いて本気で打ちひしがれる人がいないのはなぜか、と形式主義に切り返します。面白いのは、この論争が音楽をどう聴くべきかという実感にまで届いてくることです。

痺れる知見: 脳は「次の音」に賭けている

この膠着を動かしたのが、「期待」を軸に据えた研究の流れでした。

マイヤーの直感――感情は期待の充足と裏切りから生まれる――を、認知科学者デイヴィッド・ヒューロンは2006年の著書で理論に組み上げます。彼はこれを頭文字をとって ITPRA理論 と呼びました。ある音を待つあいだ、私たちの脳では、想像(Imagination)と緊張(Tension)が先に走り、音が鳴った後で予測の当否(Prediction)、反射的な反応(Reaction)、そして評価(Appraisal)が続く。作曲家は、この期待の階段をわざと踏み外させることで感情を作る、という見立てです。解決を先延ばしにされたコード進行に私たちが痺れるのは、脳が「次はこう来る」という賭けを外され、そして満たされるからだ、と。

この「賭け」に、実際の脳内物質が対応していることを示したのが、心理学者ヴァロリー・サリンプアたちの2011年の研究です。彼らは、聴くと鳥肌が立つほど好きな曲を持ってきてもらい、脳の活動を計測しました。すると、快感のピークで脳の線条体(報酬に関わる領域)にドーパミン――食べ物や報酬で放出される、快さに関わる神経伝達物質――が出ていた。しかも興味深いことに、快感が最高潮に達する瞬間と、その直前の「もうすぐ来る」という期待の局面とで、働く場所が違っていました。期待しているときは尾状核が、ピークを味わっているときは側坐核が、より強く関与していたのです。

これは、音楽が私たちを動かす仕組みの一端を、はっきり指し示しています。音楽の快さは、報酬そのものだけでなく、報酬を待つことにも宿っている。私たちは、まだ鳴っていない音に向かって、脳ぐるみで身を乗り出しているのです。

いま分かっていること、分かっていないこと

分かってきたことは、少なくありません。音楽が古い報酬回路に働きかけること。期待の操作が感情の大きな駆動源であること。そして、音楽が特殊な趣味ではなく、人類にかなり普遍的だということ――2019年に発表された大規模な研究は、民族誌の記録がある315の社会すべてに音楽が見つかり、歌が育児や治療、踊り、愛といった場面と規則的に結びつくことを示しました。

それでも、大きな問いが二つ残ります。

ひとつは、なぜこの能力が進化したのかです。心理学者スティーヴン・ピンカーは1997年に、音楽を「聴覚のチーズケーキ」と呼びました。チーズケーキが脂肪と糖への欲求にたまたま乗っかった快楽であるように、音楽も言語などのために進化した脳の副産物にすぎない、という見立てです。これに対し、音楽は集団の絆を強めるために、あるいは「私たちは足並みをそろえられる」という信頼できるシグナルとして適応的に進化した、と反論する研究者も多く、2021年には百人を超える専門家がこの論争を戦わせています。

もうひとつは、もっと手前にあります。ドーパミンが報酬を説明しても、なぜ「この」和音が「私」を打つのか――その感じられる質そのものは、計測をすり抜けていきます。脳のどこが光ったかは分かっても、光がなぜ胸をしめつける体験になるのかは、まだ言葉になっていません。

音楽の問いが面白いのは、ここでほかの大きな謎に地続きになるところです。なぜ音の並びが意味を帯び、私たちを連れ去るのか――それは、なぜ経験には「感じ」が伴うのか、という問いのすぐ隣にあります。答えの出ていないこの余白こそ、次に音楽を聴くときの耳を、少しだけ鋭くしてくれるはずです。