人工呼吸器の下で心臓は動き、手はまだ温かい。それでも脳は戻らない。この体は生きているのでしょうか。死は体に起きる出来事のはずなのに、その線をどこに引くかを決めてきたのは、医学だけではありませんでした。

ベッドの上の体は、生きているのか

集中治療室に、人工呼吸器につながれた体があります。胸は規則正しく上下し、心臓は自分の力で拍動を打ち、握った手は温かい。切り傷は治り、尿もつくられます。けれど脳のほうは、脳幹の奥まで含めて壊れていて、二度と戻りません。

この体は、生きているのでしょうか。

医学は一応の答えを持っています。多くの国で、この状態は「脳死」と呼ばれ、人の死として扱われます。けれど枕元の家族に「もう亡くなっています」と告げるとき、その言葉はしばしば宙に浮きます。目の前にあるものは、どう見ても遺体には見えないからです。

日本の法律は、この居心地の悪さに、世界でも変わった答え方をしました。臓器提供を前提としないかぎり、法にもとづく脳死判定はそもそも行われません。同じ状態の体が、ある場面では死者になり、別の場面では患者のままでいるのです。

死は、体に起きる出来事のはずです。それなのに、その線をどこに引くかは、どうやら私たちの側が決めているらしい。死の定義とは、科学が発見するものなのでしょうか。それとも、社会が決めるものなのでしょうか。

「脳が止まったとき」という線は、どこから来たか

長いあいだ、死の判定はほとんど自明でした。心臓が止まり、呼吸が止まり、瞳孔が開いて光に反応しなくなる。この三つ——三徴候と呼ばれます——がそろえば、その人は死んでいる。

自明さを壊したのは技術です。人工呼吸器が普及すると、脳が壊れても呼吸と循環を機械で保てる体が生まれました。心臓は動き、三徴候はそろわない。それでも脳はもう戻らない。

1968年8月5日、ハーバード大学医学部の特別委員会が、ひとつの答えを出しました。麻酔科医ヘンリー・ビーチャーを委員長とするこの委員会は、『米国医師会雑誌(JAMA)』に「不可逆的昏睡の定義」という報告を発表し、脳の機能が完全に、かつ不可逆的に失われた状態を、死の新しい基準として提案したのです。

この考えが法律の言葉になるのは13年後でした。1981年、アメリカの大統領委員会の作業をもとに「統一死亡判定法(UDDA)」がまとめられます。そこにはこう書かれました——循環機能および呼吸機能の不可逆的停止、または、脳幹を含む全脳のすべての機能の不可逆的停止のいずれかに至った者は、死亡している。古い線と新しい線が、どちらも死として並べられたのです。

なぜ「脳が止まると死ぬ」と言えるのか

脳死を死とする側の論拠は、直感に馴染むものでした。脳は体という有機体をひとつにまとめる統合の中心であり、それを失った体は、もはや生き物ではなく、たまたま同じ場所に集まった器官の寄せ集めにすぎない。大統領委員会が採った「全脳死」は、この発想に支えられた線でした。

ここに正面から反論した医師がいます。小児神経科医のアラン・シューモンです。彼は1998年、『Neurology』誌に「慢性『脳死』」という論文を発表しました。1万2千件を超える文献を洗い、脳死と判定されたあとも心臓が長く動き続けた症例をおよそ175例集め、そのうち詳細の分かる56例を解析したのです。

現れたのは、統合の話と噛み合わない体でした。脳死と判定された体が、数週間、数か月、まれには年の単位で循環を保ち続ける。感染と闘い、傷を治し、子どもなら背が伸びる。心停止が早く訪れるのは脳がないからというより全身管理の問題であり、脳死を死と等値したいなら「統合の喪失」よりましな根拠が要る——それが彼の結論でした。

逆の方向から線を引く立場もあります。人が死ぬとは有機体が壊れることではなく、その人という存在が失われることだ、と考えるなら、決定的なのは意識です。意識が二度と戻らないなら、脳幹が働いていてもその人はもういない。この見方は筋が通っているぶん、すぐに足元が崩れます。長く意識の戻らない人はどうなるのか。重い認知症の末期は。「その人」の輪郭を引く作業は、どこかで必ず、まだ生きている誰かを死者の側へ押しやってしまいます。

法が求める死と、医師が確かめている死

ここに、あまり知られていない裂け目があります。UDDAは「全脳のすべての機能の不可逆的停止」を求めていますが、実際の判定手順は脳のすべてを調べているわけではありません。とくに問題になるのが、ホルモンの調節を担う視床下部です。

脳死と判定された患者では、抗利尿ホルモンが出なくなる中枢性尿崩症がしばしば起こります。しかし神経内科医パナヨティス・ヴァレラスが2023年に『Neurology』誌でまとめた数字では、その発症率は成人で50〜60%、小児で52%、ある266例の集計で65%。裏を返せば、脳死と判定された人の三割から半数近くでは、視床下部から出るホルモンの分泌が続いている。法律の言葉どおりに読めば、「すべての機能」は止まっていません。

この矛盾を直す動きは実際にありました。アメリカの統一法委員会がUDDAの改訂委員会を立ち上げたのです。争点は、法の定義を実務に合わせて狭めるか、実務を法に合わせて厳しくするか、脳死を受け入れない人に例外を認めるか。結果は、2023年、合意に至らないままの中断でした。経緯をまとめた神経集中治療医アリアン・ルイスの総括論文には、こんな題がついています——「なぜ試み、なぜ失敗し、これからどこへ行くのか」。

「不可逆」という言葉のほうも、静かに動いています。2019年4月、イェール大学のネナド・セスタンらは、屠殺から4時間たったブタの脳に特殊な灌流液を送り込みました。BrainExと名づけられたこの装置で血管は再び開き、細胞は酸素とグルコースを代謝しはじめ、ニューロンは電気的な発火を見せます。ただし共同筆頭著者のズヴォニミル・ヴルセリャは「知覚や意識に結びつくような組織化された電気活動は、一度も観察されなかった」と釘を刺しました。2022年には同じ研究室が、心停止から1時間たったブタで、心臓の収縮と全身の循環、肝臓や腎臓の働きを部分的に取り戻しています。不可逆とは、いま手元にある技術では戻せない、という意味でしかないのかもしれません。

日本が出した、居心地の悪い答え

背景には、ひとつの事件があります。

1968年8月8日、札幌医科大学の和田寿郎を中心とするチームが、日本初、世界では30例目となる心臓移植を行いました。ドナーは溺水事故で運ばれた21歳の大学生、レシピエントは心臓弁膜症の18歳の高校生。その高校生が83日目の10月29日に亡くなると、疑問が噴き出します。ドナーは本当に脳死だったのか——判定の過程で脳波検査は行われていませんでした。同年12月に刑事告発されましたが、1970年夏、いずれの罪でも嫌疑不十分で不起訴。真相は、法廷で確かめられないまま残りました。

残ったのは、一人の医師への評価というより、「死は密室で決められうる」という感覚でした。日本で次に心臓移植が行われるのは1999年2月28日。31年の空白です。

その空白を経て1997年に成立したのが臓器移植法でした。脳死下での臓器提供には本人の書面による意思表示と家族の承諾が必要で、意思表示が有効なのは15歳以上。そして脳死を人の死として扱うのは臓器提供を前提とする場合に限る、という限定つきの書き方がされます。2009年の改正(翌年施行)でこの限定は法文から外れ、本人の意思が不明でも家族の承諾があれば提供でき、15歳未満の提供の道も開きました。

けれど運用は、根のところで変わっていません。日本臓器移植ネットワークははっきりこう書いています。「脳死での臓器提供を前提とした場合にだけ法的脳死判定が行われます」。臓器を提供しないなら、その人が脳死かどうかは法的には確かめられないまま。本人が生前に脳死判定を拒む意思を書面で示していれば、判定そのものが行われません。

つまり日本社会は、「脳死は人の死か」への答えを全員へ押しつけることを避け、その一部を本人と家族の手元に残しました。責任の先送りにも見えますし、決められないことを決められないままにしておく誠実さにも見えます。ただ、留保には値札があります。移植を待つ人にとって、提供が少ないことはそのまま命の問題です。

同じ揺れは、脳死をはっきり死と定めた国にもあります。ニュージャージー州は宗教的信条にもとづく拒否を法律で認めています。2013年12月、カリフォルニア州で手術後の合併症により13歳で脳死と判定されたジャヒ・マクマスは、家族が判定を受け入れず、この州へ移りました。彼女が亡くなったのは2018年6月。死亡診断書は二通あります——2013年のものと、2018年のものが。

いま分かっていること、まだ分からないこと

判定の手続きそのものは、この半世紀で確実に精密になりました。診断の技術という意味で、脳死は曖昧ではありません。

分からないのは、その状態をなぜ「死」と呼んでよいのか、という理由づけのほうです。心臓が動いているかどうかは観察できます。しかし、どの機能の停止をもって一人の人間の終わりとみなすかは、観察からは出てきません。私たちは、発見したふりをしながら、実は決めているのかもしれません。

免許証や保険証の裏に、臓器提供の意思表示欄があります。あの小さな欄は、便宜上のアンケートではありません。社会がまだ答えを出せていない問いを、一人ひとりの手に預け返している欄です。何かを書き込むとき、あなたは自分の死がどこから始まるのかを、自分で決めていることになります。