「ドアを変えますか?」——1990年、雑誌の質問コーナーに載った確率の問題に、およそ1万通の抗議が届きました。差出人には博士号を持つ研究者が1000人近く。そして間違っていたのは、博士たちのほうでした。確率はなぜ、訓練された頭脳までそろって裏切るのでしょうか。

一万通の手紙が、正しい答えに抗議した

1990年9月、アメリカの日曜版雑誌「パレード」の質問コーナーに、テレビのゲーム番組を模した問題が載りました。3つのドアがあり、1つの向こうには車、残り2つにはヤギ。あなたが1つ選ぶと、どこに車があるかを知っている司会者が、残った2つのうちヤギのドアを開けてみせ、こう持ちかけます。「ドアを変えてもいいですよ」。さて、変えるべきでしょうか。

回答者のマリリン・ボス・サヴァントは「変えるべきです。変えれば当たる確率は2倍になります」と書きました。すると編集部に抗議が殺到します。その数、およそ1万通。差出人には博士号を持つ研究者が1000人近く含まれ、数学科の便箋に書かれた、誤りをたしなめる調子のものもありました。残るドアは2つなのだから、確率は半々のはずだ、と。

間違っていたのは、博士たちのほうでした。最初に選んだドアが当たりである確率は3分の1で、正解を知っている司会者がヤギのドアを開けてみせても、そこは変わりません。だから残ったもう1つのドアに3分の2が集まります。彼女の呼びかけに応じて各地の教室が実際に手を動かして試し、「変えれば約2倍当たる」ことを確かめていきました。この「モンティ・ホール問題」は、1975年に統計学者スティーヴ・セルヴィンが専門誌への投書で原型を示したときにも、すでに「あなたは間違っている」という手紙を呼んでいます。

サイコロの計算すら出てこない、説明に1分もかからない問題で、訓練を積んだ頭脳がそろって同じ方向に間違える。確率と直感のあいだには、どうやら根の深いずれがあります。問題は、このずれをどう説明するかです。

立場1: 直感の側に、方向の揃った癖がある

心理学者のエイモス・トベルスキーとダニエル・カーネマンは、この種の間違いを「たまたまの失敗」ではなく、再現可能な現象として実験室に持ち込みました。有名なのが、1983年に発表された「リンダ問題」です。リンダは31歳の独身女性。率直でとても聡明、大学では哲学を専攻し、差別や社会正義の問題に深く関わり、反核デモにも参加した——そんな人物描写を読ませたうえで、どちらがよりありそうかを尋ねます。(a)リンダは銀行の窓口係である。(b)リンダは銀行の窓口係で、フェミニスト運動にも熱心である。

回答者の85%が(b)を選びました。しかし「窓口係でありかつフェミニスト」である確率は、「窓口係」である確率より高くなりようがありません。条件を重ねるほど、当てはまる人は減るからです。確率論のいちばん基本的な規則に反するこの間違いは、「連言錯誤」と呼ばれます。

二人の説明はこうです。人は確率を問われたとき、確率を計算する代わりに「どれだけ典型例に似ているか」という別の問いに答えている。リンダの描写はフェミニストの典型に似ているから、(b)のほうが「ありそう」に感じられる。この置き換えは速くて便利な近道ですが、確率の規則と食い違う場面では、全員が同じ向きに外れる。二人はこれを目の錯覚(錯視)になぞらえました。仕組みを知ったあとも、見え方そのものは変わらないからです。

この路線は膨大な追試を生み、行動経済学の土台になりました。ただし急所もあります。証拠の多くは、紙の上の言葉の問題です。「ありそう」という日常語を確率論の意味で受け取らなかった人を、「間違えた」と数えてよいのか。何を正解の基準に置くかというところに、真っ向からの異議が現れます。

立場2: 不自然なのは、確率という形式のほうだ

異議を唱えた代表が、ドイツの心理学者ゲルト・ギーゲレンツァーです。彼の主張の核心は、人間の直感が確率に弱いのではなく、確率という表現形式のほうが直感の設計に合っていない、というものです。

ギーゲレンツァーが指摘するのは、この形式の若さです。「一回かぎりの出来事が起こる確率は31%」といった言い方の土台になる確率論が生まれたのは17世紀、パーセント表記が日常に広まったのは19世紀以降にすぎません。それ以前の長い時間、人類は不確かさをずっと「数えた回数」で学んできました。10回漁に出て、2回しけに遭った、という形式です。彼はこれを「自然頻度」と呼び、直感は頻度で考えるようにできているのだから、頻度で問えば正しく答えられるはずだと予測しました。

実際、リンダ問題を「リンダのような女性が200人いるとします。そのうち銀行の窓口係は何人ですか。窓口係でフェミニスト運動にも熱心なのは何人ですか」と聞き直すと、誤りは劇的に減ります。ヘルトヴィヒとギーゲレンツァーの1999年の研究では、確率形式で50〜90%あった連言錯誤が、頻度形式では0〜25%まで下がりました。もし間違いが心に組み込まれた欠陥なら、聞き方を変えただけでほぼ消えるのは妙です。ここから彼らは、進化が形づくった直感は、それが適応してきた頻度の世界では有能なのであって、「バイアス」の多くは実験室が直感に不利な形式で問うた結果だ、と論じました。「生態学的合理性」と呼ばれる考え方です。

もっとも、こちらにも弱点はあります。頻度で問うても誤りが完全に消えるわけではなく、どの直感がどの環境で有能なのかを後から言い当てているだけではないか、という批判も根強くあります。対立は1996年、学術誌上での直接対決になりました。カーネマンとトベルスキーは「認知的錯覚の実在について」と題した論文で、頻度で尋ねても消えないバイアスがあることを示して反論し、同じ号でギーゲレンツァーが再反論します。2001年には、対立する研究者どうしが共同で実験を設計する「敵対的協働」まで行われました。結果は——頻度形式で連言錯誤は大きく減るが、条件によっては残る。どちらの陣営にも分のある、痛み分けでした。

陽性と言われて、本当に病気なのは10人に1人だった

この論争が言葉の遊びでないことは、医療の現場がいちばんよく示しています。

ギーゲレンツァーは2007年、産婦人科医160人の継続教育セッションで、こんな問題を出しました。ある年齢層の女性が乳がんである割合は1%。マンモグラフィー検査は、がんがある人の90%で陽性になり、がんがない人でも9%が陽性になる。では、検査で陽性だった女性が実際に乳がんである確率はどれくらいか。

最も多かった答えは「90%前後」でした。正解は、およそ10%です。1000人を検査すると、乳がんの人は10人で、そのうち陽性になるのは9人。一方、がんのない990人からも約89人の陽性が出ます。陽性は合わせておよそ98人、そのうち本当にがんなのは9人——10人に1人です。つまり陽性者の9割は、がんではありません。病気そのものがまれだという事実(基準率)を、直感は勘定に入れそこねる。「基準率の無視」と呼ばれる、確率の直感がもっとも高くつく形で外れる場面です。

これは試験の話ではありません。診察室でこの数字が読み違えられれば、不要な精密検査や、患者の何か月にもわたる不安につながります。そしてここでも、処方箋は「言い換え」でした。ホフラージェとギーゲレンツァーが1998年に医師48人で行った研究では、4種類の検査の陽性的中率を見積もらせたところ、情報を確率形式(1%、90%、9%……)で与えたときの正答は10%。同じ情報を自然頻度(1000人のうち10人……)に言い換えるだけで、正答は46%まで跳ね上がりました。完璧には程遠い数字です。それでも、伝え方ひとつで正答が4倍以上になるという事実は重く、いまでは医療のリスク伝達に自然頻度を使うことが推奨されるようになりつつあります。

いま分かっていること、まだ分からないこと

はっきりしているのは、まず、誤りが実在することです。モンティ・ホール問題も連言錯誤も基準率の無視も、何十年にもわたって再現されてきました。人間の確率判断が当てにならない場面があること自体は、どちらの陣営も認めています。同じくらいはっきりしているのは、問いの形式で成績が劇的に変わることです。これも、両陣営が認める事実です。

決着していないのは、その解釈です。カーネマンらの系譜は、これを心に組み込まれた系統的バイアスと見ます。ギーゲレンツァーらは、頻度の世界に適応した有能な直感と、生まれてまだ数百年の人工的な形式とのミスマッチと見ます。同じ実験結果を前にして、片方は誤りのカタログを編み、もう片方は直感が正しく働く条件の地図を描く。研究の向きがまるで違うのです。なぜ頻度で問うても一部の誤りは残るのか、二つの描像はどこで折り合うのか——ここは、まだ開いたままの問いです。

最後に、ひとつ試してみてください。23人のクラスに、誕生日が同じ2人がいる確率はどれくらいでしょうか。答えは50%を超えます(正確には50.7%)。低すぎると感じたなら、それは23人から253通りのペアが生まれることを、直感が数えないからです。あなたの頭が悪いわけではありません。直感の話す言語と、確率の話す言語が、違うのです。次に降水確率や検査結果や「当選確率」に出会ったら、一度だけ翻訳してみてください。100人いたら、何人か。1000回やったら、何回か。それだけで直感は、思いのほか良い数学者になります。