1997年、聴衆が投票で「本物のバッハ」に選んだ曲は、プログラムの作でした。機械による作曲を最初に予見したエイダ・ラヴレースは、同じ筆で「機械は何も生み出さない」とも書き残しています。創造したのは誰なのか——180年越しの問いに、生成AIの時代が改めて答えを迫っています。
聴衆は、機械の曲を「本物のバッハ」に選んだ
1997年、アメリカのオレゴン大学で、少し変わった演奏会が開かれました。ピアニストのウィニフレッド・カーナーが、バッハ風の曲を3つ弾きます。1曲は本物のバッハ。1曲は同大学で音楽理論を教えるスティーヴ・ラーソンがバッハの様式で書いたもの。そして1曲は、作曲家デイヴィッド・コープが開発したプログラム「EMI」が生成したものです。どれがどれか、聴衆が耳だけを頼りに判定する試みでした。
聴衆が「本物のバッハ」に選んだのは、EMIの曲でした。「コンピュータの作」と判定されたのは、人間であるラーソンの曲でした。ニューヨーク・タイムズはこの出来事を「未発見のバッハ? いいえ、コンピュータの作でした」という見出しで報じました。
この夜に起きたことは、二通りに読めます。機械が創造性を示したのか。それとも、聴衆が「バッハらしさ」という様式に票を入れただけなのか。機械に創造性はあるのか——この問いを追いかけていくと、足元の揺れる別の問いにぶつかります。そもそも創造性は、どこにあるのか。作る過程の中か。それとも、認める側のまなざしの中か。
最初のプログラマーは「機械は何も生み出さない」と書いた
この問いは、コンピュータそのものより古くから立てられています。1843年、数学者エイダ・ラヴレースは、チャールズ・バベッジが設計した機械式計算機「解析機関」についての論文を翻訳し、本文より長い訳注を付けました。世界最初のプログラムを含むとされる注釈です。彼女はそこで、この機械が数だけでなく記号一般を扱えることを見抜き、和声や作曲の規則をうまく記号にできるなら、機関は「どれほど複雑で長大な楽曲でも作曲しうる」と書きました。機械による作曲の、最初の予見です。
ところが同じ注釈の別の箇所で、ラヴレースは釘も刺しています。「解析機関は、何かを独自に生み出すと称するものではない。私たちが命じ方を知っている事柄を、実行できるだけである」。機械の音楽を最初に想像した人は、その創造性へのもっとも有名な反論を書いた人でもありました。問いは出発点からねじれていたのです。
107年後の1950年、アラン・チューリングは論文「計算機械と知能」でこの一節を「ラヴレース夫人の反論」と名づけました。彼はこれを「機械は人を驚かせることができない」という主張に読み替え、実感で応じます。機械はきわめて頻繁に私を驚かせる、と。ただし、これで決着とはなりませんでした。設計者が結果を予想できなかったことと、機械が何かを生み出したことは、同じではないのではないか。この不満は現代まで持ち越され、2001年には哲学者セルマー・ブリングスヨードらが、設計者がその産出の仕方を説明できない作品を作れたときにはじめて合格とする「ラヴレース・テスト」を提案しました。2014年には計算機科学者マーク・リードルが、評価者の指定した条件を満たす創作物を作れるかを問う「ラヴレース2.0」を提案しています。合格基準の案が出続けてどれも決定版にならないこと自体が、「創造した」と言える条件にまだ合意がないことを物語っています。
創造性は作り方に宿るのか、認められ方に宿るのか
ひとつめの立場は、創造性を制作過程の性質と考えます。「創造した」と言えるためには、出力がそれらしいだけでは足りない。作ろうとする意図があること。できたものを自分で吟味して選び直すこと。規則をなぞるだけでなく、時にそれ自体を疑えること。生成AIがしているのは、膨大な先行作品から抽出した統計的パターンの組み替えにすぎない——という批判は、この立場から発せられます。強みは、直感への合致です。手本の丸写しや偶然の産物を、私たちは創造と呼びません。ただし痛い弱点があります。人間の作り手もまた、浴びるように吸収した先行作品を組み替えて作ります。しかも当の人間は、自分の創造の過程をほとんど説明できません。「本物の創造」と「高度な組み替え」を分ける線を、この立場はまだ引けていないのです。
ふたつめの立場は、創造性を、評価する共同体が与える称号と考えます。心理学者ミハイ・チクセントミハイが提唱したシステムズ・モデルでは、創造性は個人の頭の中にはありません。作り手と、その分野に蓄積された知識や作品(領域)と、批評家・専門家・観客といった門番たち(フィールド)。この三者の相互作用から創造性は生まれ、フィールドが価値を認めて領域に書き加えたとき、作品ははじめて創造的に「なる」のです。この見方の強みは、歴史の説明力です。生前は見向きもされなかった画家が、死後に天才へ昇格する現象を無理なく扱えます。オレゴンの演奏会も同じ構図で読めます。聴衆というフィールドが、機械の出力に「バッハ」の称号を与えた、と。しかしこちらにも痛い弱点があります。創造性が評価者次第なら、それは偏見や流行の人質になります。同じ作品への評価がラベルひとつで動くのだとしたら、その称号は作品の何を測っているのでしょうか。
二つの立場は、互いの急所を正確に突き合っています。過程説は問います——評価者が見誤れば、創造性の有無まで変わってしまうのか。称号説は問い返します——では評価と切り離して「創造的な過程」を定義できた例が、これまでにひとつでもあるのか。
スランプの作曲家が作った機械と、半世紀描き続けた機械
オレゴンの主役だったEMIには、意外な出自があります。1980年代の初め、カリフォルニア大学サンタクルーズ校の作曲家デイヴィッド・コープは、オペラの作曲依頼を抱えたままスランプに陥っていました。行き詰まりを破るために書き始めたのが、自分の作風を分析して「コープ風」の音楽を提案するプログラム——のちのEMIです。コープはこれを「作曲へと私を挑発してくれるもの」と呼びました。EMIは、人間の代役ではなく、動けなくなった人間のための道具として生まれたのです。やがてEMIは、データベースに入れた楽曲群の様式を分析し、どの曲の複製でもない「その様式の新作」を組み立てる仕組みに育ちます。コープはバッハ風のコラールを5,000曲生成させ、アルバムとして世に出しました。
美術の側には、さらに長い物語があります。画家ハロルド・コーエンは1960年代の終わりに描画プログラムの構想を始め、1970年代の初めにそれを「AARON」と名づけました。以後、2016年に亡くなるまでほぼ半世紀、彼はこの一つのプログラムを書き換え続けます。AARONが生成した図像は、ペンや筆を備えた装置によって紙やカンバスに描かれました。では、残された作品群の作者は誰でしょうか。プログラムを半世紀書き続けたコーエンか。図像を生み出したAARONか。2024年にホイットニー美術館で開かれた回顧展の題名は「ハロルド・コーエン: AARON」。美術館というフィールドは、作者の座を一つに決めないまま、人間と機械、二つの名前を壁に掲げたのです。
そして、評価する側の私たちを調べた実験もあります。2023年、デューク大学の研究チームは、参加者に画像を見せて評価を求めました。一部には「人間が作った」、一部には「AIが作った」というラベルが添えられています。実際には、どちらもAIが生成した画像でした。それでも参加者は「人間作」とラベルされた作品のほうを好み、その差は、見た目の美しさよりも「深い意味を感じるか」「心を動かされるか」といった軸で大きく開きました。私たちは作品だけを見ているつもりで、作者の物語ごと鑑賞しているようなのです。
いま分かっていること、まだ分からないこと
概念の整理は進みました。認知科学者マーガレット・ボーデンは、創造性を三つの型に分けています。離れた観念どうしを思いがけずつなぐ「組み合わせ型」。ある様式が許す可能性の空間を隅々まで歩き回る「探索型」。そして、様式という空間そのものを作り変えてしまう「変容型」です。ボーデンは2009年の論文で、三つの型のいずれもAIでモデル化できると論じました。EMIやAARONは、探索型のみごとな実例と言えます。議論がもっとも尖るのは変容型です。規則の内側で新しい配置を見つけることと、規則そのものを書き換えることのあいだに、質の違いはあるのか。ここはまだ、はっきりしていません。
一方で、制度は科学に先回りして答えを出しました。2025年3月、アメリカの連邦控訴裁判所は、AIシステムが自律的に生成した画像「A Recent Entrance to Paradise」の著作権登録を拒否した著作権局の判断を支持しました。著作者は人間でなければならない、という理由です。2026年3月には連邦最高裁が上告を退け、この判断は確定しました。ただしこれは、機械に創造性がないことの証明ではなく、法という最も形式化された「フィールド」が、当面は作者の椅子を人間に限ると決めた——そういう制度の選択です。
肝心の対立、つまり創造性は過程の性質なのか、共同体が与える称号なのかは、決着していません。この問いが落ち着かないのは、機械を測るつもりで作った物差しが、そのまま人間に跳ね返ってくるからです。過程に線を引こうとすれば、先行作品を浴びて育つ人間の創作もまた説明を迫られます。称号だと言い切れば、私たちが天才と呼んできたものの少なくない部分が、評価の歴史の産物だったことになります。
次にあなたが、ある曲や絵の前で足を止めたとしましょう。あとから、それがAIの作だと知ったとき、何かが変わるでしょうか。変わるとしたら——変わったのは作品のほうでしょうか、それとも、あなたのほうでしょうか。