いま、あなたはこの文章を読み続けるか、やめるかを選べます。少なくとも、選べる気がしています。ところが脳を測る装置は、あなたが「決めた」と感じるより前に、その決定の兆しを拾い始めているかもしれない——そんな実験が、半世紀ものあいだ論争の火種になり続けています。
「選んだ」という感覚は、どこから来るのか
コーヒーにするか紅茶にするか。あなたはたった今、自分で決めたはずです。誰かに強制されたわけでも、くじで引いたわけでもありません。その「自分で決めた」という感覚こそが、私たちが日々の責任も、後悔も、誇りも積み上げている土台です。
ところが、この感覚を少し押してみると、足元が意外と柔らかいことに気づきます。あなたが紅茶を選んだのは、今朝たまたま見た広告、昨夜の睡眠時間、遺伝子、そのとき脳内をめぐっていた神経伝達物質——数え切れない原因の合流点だったのではないか。もしそのすべてを完全に巻き戻せたら、あなたはやはり紅茶を選ぶのではないか。だとすれば、「選べた」とは一体どういう意味なのでしょう。
自由意志の問題は、宗教が全能の神を語っていた時代からありました。今日ではその座に、因果の連鎖を追う脳科学が座っています。問いは古いのに、まだ決着していません。
三つの立場——決定論をどう受け止めるか
この問いの中心には、「決定論」があります。世界の出来事は、過去の状態と自然法則によって残らず決まっている、という考え方です。ここから、大きく三つの立場が分かれます。
ひとつめは、自由意志などない、と認める立場です。もし宇宙が因果の鎖でできているなら、私たちの選択もその鎖の一部にすぎません。「別のこともできた」という感覚は、脳が生み出す説得力のある錯覚だ、というわけです。強い形では「ハード決定論」と呼ばれます。冷たく聞こえますが、この立場は「では罰とは何のためにあるのか」という問い直しを迫る、倫理的にむしろ真剣な態度でもあります。
ふたつめは、自由意志はある、決定論の方が間違っている、という立場です。「リバタリアニズム」(政治思想の同名の立場とは別物です)と呼ばれます。人間の選択には、物理的な因果だけには還元できない何かがある——たとえば量子的な非決定性や、原因に完全には縛られない主体の働きがある、と考えます。私たちの「本当に選べた」という強い直感を、額面どおり守ろうとする立場です。ただし、その「何か」を科学の言葉でどう説明するかは、大きな宿題として残ります。
みっつめは、決定論が正しくても自由意志はある、という立場です。「両立論(コンパティビリズム)」と呼ばれ、現代の哲学者に最も支持者が多いとされます。哲学者ダニエル・デネットが代表的な論者です。彼らはこう問い返します——そもそも自由とは、「原因がまったくないこと」だったでしょうか。もし私の選択が何の原因もなくランダムに飛び出すなら、それはむしろ自由ではなく、ただの偶然です。大事なのは、選択が外部からの強制や脅迫ではなく、自分の欲求や理由にもとづいて生まれたかどうか——デネットの言葉では「理由に応答できる」かどうかだ、と。この見方では、原因があることと自由であることは、そもそも対立しないのです。
三つの立場は、どれも同じ事実(世界には因果がある)を前にして、「自由」という言葉に別々の意味を込めています。だから議論がすれ違い、そして終わらないのです。
脳は、あなたより先に決めているのか
哲学の膠着に、実験科学が横から手を突っ込んだ瞬間があります。1983年、生理学者ベンジャミン・リベットの実験です。
被験者は、好きなタイミングで手首を動かすよう求められます。同時に、特殊な速く動く時計を見て、「動かそうと意識した瞬間」を報告します。頭皮の電極が脳の活動を測っています。すると奇妙なことが起きました。動作の準備を示す脳の電気信号——「準備電位」——が、本人が「動かそう」と意識するより前、運動のおよそ0.5秒前から立ち上がっていたのです。意識的な意図が現れるのは、そのあと。脳は、あなたが決めたと感じる前に、すでに動き出しているように見えました。
2008年には、神経科学者ジョン=ディラン・ヘインズらが、fMRI(脳の血流を映す装置)を使ってさらに踏み込みます。左右どちらのボタンを押すか、という選択を、本人が自覚する最大7秒も前に、前頭極や頭頂の脳活動パターンから予測できたと報告したのです。7秒。まばたきよりずっと長い時間、脳は本人に内緒で答えを準備していたことになります。
これは自由意志の死亡宣告のように受け取られました。けれど、話はそこで終わりません。2012年、神経科学者アーロン・シュルガーらが、準備電位の意味を問い直します。彼らのモデルでは、準備電位は「脳がすでに決めた証拠」ではありません。脳は絶えず自発的なゆらぎ(ノイズ)を出しており、それがある閾値を超えたときに動作が起きる。「動かそう」という合図は、そのゆらぎがたまたま山を越えた瞬間に重なっているだけかもしれない——そう考えると、準備電位は決定の記録ではなく、偶然の波の後ろ姿だということになります。閉じかけた問いが、静かにまた開いたのです。
しかもリベットの実験が語れるのは、「いつ手首を動かすか」といった、その場かぎりの単純な衝動についてだけです。進学先を選ぶ、職を辞める、誰かを許す——時間をかけ、理由を並べて下す決定に、この0.5秒の話がそのまま当てはまるのかは、まったく別の問題として残っています。
いま分かっていること、分かっていないこと
はっきりしているのは、私たちの選択が脳の物理的な過程と深く結びついている、ということです。それは麻酔や脳損傷や薬物が意思決定を変えてしまう事実からも、疑いようがありません。分かっていないのは、その結びつきが「自由の否定」を意味するのかどうかです。準備電位ひとつをとっても、それが何を測っているのかで研究者の解釈は割れたままで、実験は自由意志の存否を決着させていません。
この問いが宙づりのままでいられないのは、私たちの社会が自由意志を前提に組み立てられているからです。とりわけ法がそうです。「責任を問える」のは「自分の意志で選べた」からだ、という考えが、刑罰の根っこにあります。もし脳がすべてを決めているなら、罰は正当化できるのか。この論争は「神経法学(ニューロロー)」という新しい分野を生みました。もっとも、法学者スティーヴン・モースのように、「神経科学はまだ刑事責任の前提を覆してなどいない」と冷静に釘を刺す論者も少なくありません。脳の説明(こうなっている)と、法の要請(こうすべき)のあいだには、簡単には埋まらない溝があるからです。
自由意志の問いの厄介さは、それを考えているあなた自身が、まさに問いの当事者だという点にあります。「自分は自由に考えている」というその実感こそ、検証したい対象そのものなのです。答えはまだ手の中にありません。けれど、足元が柔らかいと気づいたあとの世界の見え方は、気づく前とは少しだけ違っているはずです。