目の前の犬は生きていて、足元の石は生きていない。誰でも一瞬で見分けられます。ところが「生きているとは何か、一文で説明してください」と言われると、たいていの人は言葉に詰まります。見分けられるのに、定義できない——生物学はいまも、この宿題を抱えています。

見分けられるのに、定義できないもの

生命ほど身近なものはありません。あなた自身が生きていて、まわりの人も、街路樹も、土の中の微生物も生きています。石やコップは生きていない。この区別に、私たちはまず迷いません。

ところが、いざ「生きているとはどういうことか」を言葉にしようとすると、途端に足場がぐらつきます。「動くこと」でしょうか。しかし川も炎も動きます。「増えること」でしょうか。しかし結晶も条件が揃えば増えます。「代謝すること」「子孫を残すこと」——ひとつ挙げるたびに、当てはまらない生き物か、当てはまってしまう無生物が現れます。

驚くことに、生物学には万人が合意する「生命の定義」がまだありません。私たちは生命を研究の対象にしながら、その対象が何なのかを、正確には言えずにいるのです。

立場1: 生命とは「流れをせき止め続けるもの」

ひとつめの立場は、生命を物質の状態ではなく、絶え間ない働きとして捉えます。

物理学者エルヴィン・シュレーディンガーは1944年の講義録『生命とは何か』で、こう考えました。宇宙のあらゆるものは放っておくと乱雑さ——エントロピー、つまり無秩序の度合い——が増えていく。それなのに生き物は、なぜ高度な秩序を保っていられるのか。彼の答えは、生命は環境から「負のエントロピー」を取り込み、秩序を食べて生きている、というものでした。

この見方を推し進めると、生命とは「壊れゆく流れのなかで、自分の秩序を作り直し続ける仕組み」だということになります。日本では分子生物学者の福岡伸一が、これを動的平衡——分子が絶えず入れ替わりながら、全体としての形が保たれる状態——という言葉で描いています。私たちの体を作る分子は、数か月もすれば大半が食べ物由来の別の分子に置き換わっています。それでも「私」は続く。生命は静止した「もの」ではなく、止まれば消えてしまう「流れ」そのものなのだ、というわけです。

立場2: 生命とは「進化するもの」

ふたつめの立場は、秩序や代謝ではなく、進化する能力こそが生命の本質だと考えます。

NASAの探査に関わる研究者たちが1990年代にまとめた、よく引かれる作業上の定義があります。生命とは「ダーウィン的進化を起こしうる、自己維持的な化学システムである」。この定義を提案した化学者ジェラルド・ジョイスの意図はこうです——たとえ体の形や材料が地球の生き物とまったく違っても、世代を重ねて変異し、選択され、適応していくなら、それを生命と呼ぼう。

この立場の強みは、地球の生命だけにとらわれない点です。もし火星や氷の衛星で、私たちの知らない化学でできた「何か」が見つかったとき、DNAや細胞膜を基準にすると見逃してしまう。しかし「進化するか」を基準にすれば、姿かたちに縛られずに生命を探せます。ただしこの定義には弱点もあります。子を残す前に死んだラバは進化に参加できませんが、生きていないとは言いにくい。定義と直感が、ここでずれます。

立場3: そもそも定義しようとするのが早すぎる

みっつめは、少し意外な立場です。哲学者キャロル・クレランドは、いま生命を定義しようとすること自体に無理がある、と論じます。

彼女のたとえはこうです。分子の理論がなかった時代に「水とは何か」を定義しようとしても、「透明で冷たく喉の渇きを癒す液体」といった性質の寄せ集めにしかならなかった。水がH₂Oだと分かったのは、化学という土台ができてからです。生命も同じで、私たちはまだ「生命とは何か」を貫く一般理論を持っていない。だから定義をめぐる論争が延々と終わらないのだ、と。

彼女の提案は、無理に線を引くのをやめ、「生きているとも死んでいるとも決めがたいもの」こそ、新しい生命の手がかりとして丁寧に調べよう、というものです。定義を急がないことが、かえって発見への近道になるかもしれません。

最小の生命を作ってみたら、正体が分からなかった

議論だけでは膠着します。そこで科学者たちは、生命を「作って」理解しようとしてきました。

1953年、スタンリー・ミラーは、原始地球の大気に見立てたメタンやアンモニアの混合気体に放電を続ける実験を行い、生命の材料であるアミノ酸が無機物から自然に生じることを示しました。生命の起源が、実験室で検証できる化学の問題になった瞬間です。

そして2016年、ジェイ・クレイグ・ヴェンター研究所のチームが、さらに踏み込みました。細菌の遺伝子をひとつずつ削り、「これ以上減らすと生きられない」ぎりぎりまで切り詰めた人工細胞、JCVI-syn3.0を作り上げたのです。その遺伝子はわずか473個。自力で増殖できる生き物として、当時知られる最小のゲノムでした。

ところが、ここに痺れる事実があります。生きるのに絶対必要と分かっているその473個のうち、約3割にあたる149個は、何のために必要なのか、機能が分からなかったのです。私たちは生命をぎりぎりまで削ぎ落とし、その最小の姿を手のひらに乗せました。それでもなお、その一部が「なぜ要るのか」を説明できない。作れることと、分かることは、別なのです。

いま分かっていること、分かっていないこと

はっきりしていることもあります。地球の生命はすべて同じ化学——DNA、RNA、タンパク質——を土台にしており、共通の祖先までさかのぼれること。生命の材料が無機物から生じうること。これらは膨大な証拠に支えられています。

分からないのは、その材料が、どうやって「増え、進化する何か」へと飛び移ったのか、という一線です。アミノ酸が作れることと、それが自分を複製する仕組みへ組み上がることのあいだには、途方もない距離があります。単なる化学反応と、生命と呼べる仕組みのあいだには、まだ埋まっていない溝があるのです。だからこそウイルスは、いまも生物学者を悩ませます。自力では代謝も増殖もできないのに、細胞に入り込めば増え、進化もする。生きているとも死んでいるとも決めきれない、まさに灰色地帯の住人です。

そしてこの問いは、遠い将来の問いではありません。地球外の探査で「生命かもしれない何か」に出会ったとき、私たちはそれを生命と判定できるのか。合成生物学が新しい生き物を設計しはじめたいま、どこからを生命として扱うのか。定義を持たないまま、私たちはすでに生命の境界線の上を歩き始めています。