会議が終わってしばらくすると、「あのとき、まずいと思っていた」と言う人が現れる。全員が賢明で、真面目で、悪意もなかったのに、組織は構成員の誰ひとり望まなかった結論へたどり着くことがあります。間違えたのは、誰なのでしょうか。
「まずいと思っていた」は、いつも遅れてやってくる
会議で方針が決まる。数か月後にそれが失敗だったと分かる。すると、「あのとき、まずいと思っていた」と言う人がひとり、またひとりと現れる——多くの人に見覚えのある光景ではないでしょうか。
不思議なのはここからです。企業の不祥事や大事故の調査報告書を読むと、分かりやすい悪人や無能な人は、なかなか見つかりません。むしろ「関係者はそれぞれの持ち場で真面目に働いていた」という記述が延々と続きます。一人ひとりに話を聞けば全員が賢明なのに、組織になったとたん、誰も選ばなかったはずの結論に到達してしまう。
では、間違えたのは誰なのでしょうか。この問いをめぐって、研究者たちは大きく三つの答えを出してきました。そして三つめの答えは、かなり不穏です。
立場1: 集団が、個人を狂わせる
ひとつめの立場は、失敗の源を人間の心理に求めます。
心理学者アーヴィング・ジャニスは1972年の著書『集団思考の犠牲者たち』で、「集団思考(グループシンク)」——結束の固い集団ほど、合意を乱す異論を口に出せなくなる現象——を定式化しました。素材にしたのは、ケネディ政権によるピッグス湾侵攻(1961年、キューバへの侵攻作戦の大失敗)をはじめとする、米国外交の失敗の数々です。当代最高の知性を集めたはずの政権が、なぜ杜撰な作戦を承認したのか。ジャニスの答えは逆説的でした。優秀な人が集まり、互いに信頼し合っているからこそ、「この空気を壊したくない」という力が働き、疑問が飲み込まれていくのだ、と。
この立場に立てば、処方箋は「異論を出しやすくする仕組み」になります。あえて反対役を置く、リーダーは最初に意見を言わない、といった会議の作法は、この系譜から来ています。
立場2: 構造そのものが、失敗を生む
ふたつめの立場は、人の心理をいくら整えても消えない失敗がある、と主張します。
社会学者チャールズ・ペローは、スリーマイル島原発事故(1979年)の分析を出発点にした1984年の著書『ノーマル・アクシデント』で、こう論じました。要素が複雑に絡み合い(複雑性)、しかも一つの異常が瞬時に連鎖する(密結合)システムでは、想定外の相互作用による事故は例外ではなく「正常(ノーマル)」な出来事である。誰を配置しても、どれほど注意深く運用しても、いずれ起きる、と。
この見方では、「誰が間違えたか」という問い自体が的外れになります。問うべきは「このシステムは、そもそも人間に扱いきれる複雑さなのか」。責任者の処罰や再発防止研修では、構造が同じである限り、次の失敗は防げないことになります。
立場3: 全員が正しいからこそ、間違える
三つめの立場は、いちばん受け入れがたいものかもしれません。誰も間違えていないのに、組織は間違える、という答えです。
経営学者クレイトン・クリステンセンが1997年の『イノベーションのジレンマ』で示したのは、優良企業が新技術に敗れるのは経営がまずいからではなく、むしろ優れているからだ、という逆説でした。主要顧客の声に耳を傾け、利益率の高い事業に資源を集中する——教科書どおりの正しい判断を積み重ねた結果として、当初は性能の低い「破壊的技術」への対応が遅れ、市場ごと足元をすくわれる。
ゲーム理論の言葉を借りれば、これは各プレイヤーの個別最適が全体の最適と一致しない構造です。部門ごとに見れば全員が合理的に振る舞っている。その合理性の合成が、全体としての誤りになる。この立場が示唆するのは、組織の失敗には「犯人探し」でも「注意喚起」でも届かない層がある、ということです。
ルールを破らなかったから、墜ちた
三つの立場が一枚の絵に重なる事例があります。1986年1月28日、スペースシャトル・チャレンジャーは打ち上げの73秒後に空中分解し、7名の宇宙飛行士が亡くなりました。直接原因は、接合部を密封するゴム部品「Oリング」が、異例の低温で機能しなかったことです。
前夜、部品メーカーの技術者たちは電話会議で、冷え込みを理由に打ち上げ延期を進言していました。しかし協議の末、経営側は打ち上げへの同意に転じます。ここまでなら「現場の警告を上層部が握りつぶした」という分かりやすい物語です。
ところが、社会学者ダイアン・ヴォーンが長年の調査の末に著した『チャレンジャー打ち上げ決定』(1996年)が描いたのは、別の絵でした。Oリングの異常は、事故のずっと前から繰り返し観測されていたのです。そのたびに技術的な検討が行われ、「許容範囲」と判断され、飛行実績が積み上がるほどに、異常は「いつものこと」になっていった。ヴォーンはこの過程を「逸脱の常態化」と名付けました。基準からのずれが、一度受け入れられるたびに新しい基準になっていく——彼女の結論を一言でいえば、惨事を生んだのはルール違反ではなく、ルールへの同調だった、ということになります。
もうひとつ、方向は逆なのに同じ場所を照らす発見があります。1990年代半ば、当時ハーバードの大学院生だったエイミー・エドモンドソンは、病院の投薬エラーを調査し、「優れたチームほどエラーが少ないはずだ」という仮説を立てました。データが示したのは逆で、優れたチームほど報告されるエラーが多かったのです。彼女がたどり着いた解釈は、優れたチームはミスが多いのではなく、ミスを口に出せる、というものでした。この発見はのちに「心理的安全性」——ミスや異論を口にしても罰されないという、チーム内で共有された感覚——の研究へと発展します。失敗が見えない組織こそ、いちばん危ない。組織研究が掘り当てた、皮肉な鉱脈です。
いま分かっていること、まだ分からないこと
半世紀の研究を経て、見えてきたことがあります。組織の失敗は、構成員の資質よりも、情報がどう流れるかの構造と、「言えるかどうか」の規範に強く左右される。だから犯人探しは再発防止としてはあまり機能せず、むしろ報告を減らして次の失敗を見えなくする——この理解は、航空安全や医療安全の実務にも浸透しつつあります。
一方で、決着していない論争もあります。ペローのように「十分に複雑なシステムの失敗は原理的に避けられない」と見るか、失敗の許されない環境で高い信頼性を保ち続ける組織を研究し、そこに希望を見るか。事故の後から失敗の物語を再構成することは上手になりましたが、次の失敗を事前に言い当てることは、依然としてほとんどできていません。そして逸脱の常態化は、一度是正しても、時間とともに静かに再発します。組織は学習できるのか、それとも学習したという記憶ごと風化していくのか——この問いは、まだ開いたままです。