20世紀の社会科学は「近代化が進めば宗教は衰退する」とほぼ確信していました。ところがこの予測は、社会科学の歴史でも指折りの外れ方をします。世界の無宗教人口は、割合で見るとこれから縮んでいく見込みなのです。

消えるはずだったものの現在地

もし「100年後、宗教は今より衰えていると思いますか」と聞かれたら、あなたはどう答えるでしょうか。日本で暮らしていると、宗教は少しずつ過去のものになっていくように見えます。20世紀の社会科学も同じ見立てでした。「近代化が進めば宗教は衰退する」——いわゆる世俗化論は、長いあいだ主流の予測だったのです。

ところが、この予測は思ったようには当たりませんでした。世俗化論の代表的な論者だった社会学者ピーター・バーガーは、1999年に「今日の世界は、かつてないほど猛烈に宗教的だ」と書き、自らが広めた理論の誤りを認めています。ピュー研究所の人口予測では、世界人口に占める無宗教の人の割合は2010年の16%から2050年には13%へ、むしろ縮んでいく見込みです。

宗教は、なくなるどころか増えている。自分の実感と世界の趨勢がここまでずれる問いは、そう多くありません。では、なぜなくならないのでしょうか。

立場1: 宗教は心の「自然な出力」である

ひとつめの立場は、答えを人間の認知の仕組みに求めます。

認知人類学者パスカル・ボイヤーが2001年の著書で押し広げた「宗教認知科学」と呼ばれる分野の見方では、宗教のための特別な心の部品は存在しません。私たちの心には、他者の意図を読む仕組みや、物音や気配の背後に「誰か」を想定する仕組みが備わっています。心理学者ジャスティン・バレットは後者を過活動なエージェント検出——行為者がいないところにまで行為者を見つけてしまう癖——と名づけました。草むらの揺れを風と流すより捕食者と身構えるほうが、祖先の生存には安全だったからです。

見えない存在、死後も続く人格、意図を持った運命。宗教的な観念はこうしたふつうの認知が生み出す自然な副産物だ、というのがこの立場です。ここから導かれる答えはシンプルです。宗教がなくならないのは、人間の心の設計が変わらないから。制度としての宗教が衰えても、宗教的な直感は世代ごとに新しく生成され続けます。

立場2: 宗教は協力の「社会技術」である

ふたつめの立場は、個人の頭の中ではなく、集団の側から答えます。

見ず知らずの他人同士が信頼し合う大規模な社会は、どうやって可能になったのか。心理学者アラ・ノレンザヤンの「ビッグ・ゴッド」仮説は、人間の行いを監視し、裏切りを罰する大きな神への信仰が広まったことが、血縁を超えた協力を支えたと考えます。誰も見ていない場面でも「神が見ている」なら、人は裏切りにくくなる。この見方では、宗教は集団をまとめる装置として文化的に選択されてきた社会技術です。

この立場の答えはこうなります。宗教がなくならないのは、協力という課題がなくならないから。宗教が退場するなら、同じ機能を果たす別の何かが必要になるはずだ、と。

立場3: 宗教は不安への「応答」である

みっつめの立場は、世俗化論を捨てるのではなく、条件を付けて生かします。

政治学者のピッパ・ノリスとロナルド・イングルハートは、世界規模の価値観調査のデータから、宗教心の強さを左右するのは存在論的安全——明日の生存を当然のものと感じられるかどうか——だと論じました。実際、豊かで安全な先進国では宗教離れが着実に進んでいます。世俗化は間違いではなく、条件付きで起きているのです。

それでも世界全体の宗教人口が増えるのは、宗教的な地域ほど出生率が高いから。ピュー研究所の予測でも、増減を動かす主因は改宗ではなく人口動態だと分析されています。この立場の答えは、宗教がなくならないのは不安と格差がなくならないから、となります。

コミューンの寿命を測った研究

三つの立場のうち、協力の理論には印象的な検証があります。

人類学者リチャード・ソシスとエリック・ブレスラーは2003年、19世紀のアメリカで作られた83のコミューン——財産を共有し、共同生活を営んだ自給的な共同体——の記録を調べました。着目したのは、メンバーに課された「コストの数」です。財産の供出、禁欲、特定の服装、外部との接触制限。要求が多いほど、参加の負担は重くなります。

結果は二重に意外なものでした。まず、宗教的なコミューンは世俗的なコミューンより解散しにくく、課す要求の数も世俗の約2倍に及んでいました。さらに、要求が厳しいほど長く存続するという関係は、宗教的なコミューンにだけ見られたのです。世俗の共同体では、厳しさは寿命を延ばしませんでした。

有力な解釈は「高価なシグナル」です。簡単には払えないコストを払ってみせることが、「私はこの集団に本気で関わっている」という偽装しにくい証明になり、ただ乗りを防ぎ、相互の信頼を支える。そして神聖化された理念は、世俗の理念よりもそのコストに意味を与えやすい——。外から見れば非合理な戒律や儀式が、協力を成立させる仕組みとして働いていた可能性を、この研究は示しています。

いま分かっていること、まだ分からないこと

三つの立場は、いまでは対立というより役割分担に近づいています。認知が宗教的観念の供給源を用意し、協力の機能がそれを社会に定着させ、不安の水準が需要を左右する。複数の要因を組み合わせて説明する路線が現在の主流です。

分からないのは、この先です。豊かで安全な社会が宗教抜きで何世代も続いたとき、宗教が担ってきたもの——死の意味づけ、共同体の結束、人生の節目の儀礼——を何が引き受けるのか。歴史上、宗教を持たない社会のサンプルはごくわずかで、答え合わせはまだ始まったばかりです。宗教を信じていないと答える人が多い一方で、初詣や葬送の儀礼が生活に残り続ける日本は、この問いを考えるうえで世界的にも興味深い観察対象になっています。あなた自身の初詣が、理論のどの立場で一番うまく説明できるか。それを考えてみるだけでも、この問いは自分事になるはずです。