2018年、生まれる前に遺伝子を書き換えられた双子が誕生しました。多くの人の最初の反応は、はっきりした拒否感でした。ですが「なぜいけないのか」と問い直すと、理由は意外なほど散らばります。危険だから? では安全ならいいのか。不自然だから? ではワクチンや眼鏡はどうなのか。強い「ノー」の声のわりに、その根拠は驚くほど言葉にしにくいのです。

直感は「ノー」と言う。その理由が、言葉にならない

私たちはふだん、病気を「治す」ことをためらいません。折れた骨をつなぎ、視力を眼鏡で補い、ワクチンで免疫をつくり変える。どれも自然のままの体に手を加える行為ですが、誰もそれを咎めません。

ところが、生まれる前の受精卵の遺伝子を書き換えて、たとえば「背を高く」「記憶力をよく」しようとしたとたん、多くの人の内側で警報が鳴ります。この落差は不思議です。治すのはよくて、良くするのはなぜだめなのか。線はどこに引かれているのか。押してみると、その線は思ったよりずっとあいまいです。

三つの立場——「してよい」「してはいけない」、そして「どこまでが治療か」

ひとつめは、条件つきで肯定する立場です。 哲学者ジュリアン・サヴァレスクは2001年に「生殖上の善行(procreative beneficence)」という原理を唱えました。もし子を持つと決め、選ぶことができるなら、親には「もっともよい人生を送れると期待される子」を選ぶ十分な道徳的理由がある、というものです。彼はこれを病気の回避だけでなく、知能のような非疾患の形質にまで広げます。子の幸福を願うのが親の務めなら、その手段が教育でも遺伝子でも、原理的な違いはないではないか——これがこの立場の一番強いところです。

ふたつめは、それでも一線を越えてはならないとする立場です。 政治哲学者マイケル・サンデルは、エンハンスメント(能力の増強)の問題は安全性や公平性の手前にある、と論じます。子を設計しようとする衝動の核にあるのは、生命を「支配(mastery)」しようとする傲慢だ、と。私たちが本来もつべきなのは、子どもも、自分の才能も、思いどおりにならない「授かりもの(giftedness)」として受けとる感覚である。それを失えば、親子の関係も、たまたま恵まれた者が恵まれない者を思う連帯感も、静かに崩れていく——サンデルはそう警告します。

哲学者ユルゲン・ハーバーマスは、別の角度から反対します。誰かに「プログラムされた」と知っている人は、自分の体や能力を自分自身のものとして引き受けにくくなり、自律した対等な存在だという感覚が揺らぐのではないか。改変する世代とされる世代のあいだに、二度と対等になれない非対称が生まれる、というのです。

みっつめは、境界そのものを見つめる立場です。 多くの人が直感的に受け入れる線引きは「治療(therapy)ならよい、増強(enhancement)はだめ」というものです。けれど、この線は思うほど安定しません。重い遺伝病を防ぐのは治療でしょう。では、病気になりにくい体質にするのは? 平均より少し丈夫にするのは? 「正常」と「それ以上」の境目は、時代や社会が「ふつう」をどこに置くかで動いてしまう。だからこの区別に倫理の重みを丸ごと預けてよいのか、と疑う研究者は少なくありません。

「治すつもり」が、未知の書き換えになった夜

議論が抽象論で終わらなくなったのは、2018年でした。中国の研究者フー・ジエンクイ(賀建奎)が、遺伝子を編集した双子の女児——公表名ルルとナナ——の誕生を発表したのです。狙いは、HIVの感染に関わる CCR5 という遺伝子を壊し、この子たちにHIVへの抵抗力を与えることでした。

一見すると「治療」に近い動機に見えます。しかし中身を知るほど、話は不穏になります。自然界には、CCR5がある形で欠けているとHIVに感染しにくくなる変異が実際に存在します。ところが彼のチームがつくり出したのは、その自然変異とは違う、ヒトで前例のない書き換えでした。つまりHIVに効くのかどうかも、体の他の場所にどんな影響が出るのかも、確かめられないまま子どもが生まれてしまった。しかもCCR5は一つの働きだけを担う遺伝子ではなく、壊すことが別のリスクを招く可能性も指摘されています。

もう一つ、この事例には哲学者を悩ませる論点があります。編集をしなければ、その双子は「別の受精卵から生まれた別の人」だったはずです。編集された当人にとって、比べるべき「編集されなかった自分」は存在しない。すると「本人のためになったか」という問い自体が、足場を失ってしまうのです。

2019年12月、彼は違法な医療行為の罪で禁錮3年、罰金約300万元(約43万ドル)の判決を受けました。世界の科学界はこの実験をほぼ一致して非難しました。ただし、非難の中心にあったのは「遺伝子を編集したこと」そのものより、「安全性も社会的合意もないまま強行したこと」でした。この違いは小さく見えて、実は問いの核心に触れています。

分かっていること、まだ答えの出ていないこと

いま合意があるのは、手続きのレベルまでです。安全性が確立されず、広い社会的合意もないまま、生殖細胞系列——つまり子孫に受け継がれる細胞——を編集するのは無責任だ、という点は、国際的にほぼ共有されています。2020年に各国の学術機関がまとめた国際委員会の報告書も、ごく限られた条件を満たす場合にのみ将来の可能性を検討しうる、という慎重な線を引きました。

答えが出ていないのは、その先です。もし安全性が完全に確立され、社会の合意も得られたと仮定したとき、それでも越えてはいけない一線はあるのか。あるとすれば、それは「治療か増強か」なのか、「本人のためか親の願望か」なのか、それとも人類が自分の設計図に手を入れること自体なのか。技術は年々「できること」を増やしていきますが、「してよいこと」の輪郭は、そのスピードには追いついていません。

そしてこの問いは、遠い未来の空想ではありません。私たちはすでに、出生前診断や受精卵の選別という形で、生まれてくる命に対して選択を重ねています。「作り変える」という言葉に身構える一方で、私たちはもう、その入り口をくぐり始めているのかもしれません。