「木漏れ日」は英語に訳せない——そう聞くと、少し誇らしくなりませんか。けれど言語学の古典は「どんな経験もどの言語でも伝えられる」と言います。では、翻訳で本当に失われているものは何か。100通りに英訳された芭蕉の蛙が、その手がかりをくれます。
「翻訳できない言葉」の本は、なぜ世界中で読まれたのか
2016年、『翻訳できない世界のことば』という小さな絵本の日本語版が出ました。ほかの言語に一語では訳せない言葉を、世界中から50あまり集めた本です。日本語からは「木漏れ日」が、ポルトガル語からは「サウダージ」——去っていったものへの、甘さの混じった恋しさ——が選ばれています。原書はニューヨーク・タイムズのベストセラーになり、日本語版も書店員が選ぶ「キノベス!2017」で1位になりました。学問の世界でも、心理学者ティム・ロマスが幸福感にかかわる「翻訳できない」言葉を216語集めて学術誌に発表し、語彙集はその後600語を超えるまでに膨らみました。
ただ、少し立ち止まると、妙なことに気づきます。「木漏れ日は英語に訳せない」と紹介するその本が、木漏れ日を英語で説明できてしまっているのです。葉のあいだから漏れてくる日の光——そう言われて、英語の読者は現に理解している。翻訳できないはずの言葉が、説明され、理解され、翻訳されてベストセラーになっている。
だとすると、あの「訳せない」という手応えの正体は何なのでしょう。翻訳で本当に失われているものは、何なのでしょうか。
失われるのは意味ではなく、「言わされること」
言語学者ローマン・ヤコブソンは、1959年の論文「翻訳の言語学的側面について」でこの問いに古典となる整理を与えました。出発点は、身も蓋もないほど強気です。「あらゆる認知的経験とその分類は、現存するどの言語でも伝えることができる」。単語が欠けていれば、借用や造語や言い回しで補えばよい。一語の対応がないことと、伝えられないことは、別の話だというわけです。
そのうえで彼は、のちに何度も引用される一文を書きつけます。「言語が本質的に異なるのは、何を伝えうるかにおいてではなく、何を伝えなければならないかにおいてである」。
日本語の「きょうだいがいる」は、人数を言わずに済みます。英語では a brother か brothers か、単数か複数かを選ばなければ文が完成しません。逆に、英語が黙っていられることを他の言語が強制する場合もあります。ヤコブソンが挙げるのは文法上の性です。ロシア語で「死」は女性名詞、ドイツ語では男性名詞。ドイツの物語の翻訳を読んだロシアの子どもが、死神が男の老人として描かれているのを見て仰天した、と彼は書いています。パステルナークの詩集『わが妹、人生』は、「人生」が女性名詞のロシア語では自然な題名ですが、同じ名詞が男性名詞になるチェコ語への翻訳は、詩人ヨゼフ・ホラを絶望させました。
意味は運べる。しかし、言語が話し手に課す選択の網の目——数を言え、性を帯びよ——までは運べない。だからヤコブソンは、響きやかたちそのものが意味を担う詩だけを別枠に置きました。詩は定義からして翻訳不可能で、可能なのは「創造的な転位」、別の形で作り直すことだけだ、と。
そもそも「唯一の正しい翻訳」は存在するのか
哲学者W・V・O・クワインは、1960年の著書『言葉と対象』でもっと足元を掘り崩す思考実験を示しました。まったく未知の言語の土地に、言語学者がひとりで入るとします。野原をウサギが横切り、現地の人が「ガヴァガイ」と言う。言語学者は「ウサギ、だな」とメモを取る——しかし、その訳が正しいという保証はどこにあるのでしょうか。
「ガヴァガイ」は「ウサギ」ではなく、「切り離されていないウサギの部分」を指しているのかもしれないし、「ウサギ性がそこに現れている」という報告なのかもしれない。屁理屈に聞こえますが、どの解釈を採っても、現地の人々がうなずいたり首を振ったりする場面は完全に同じになります。クワインの主張は「いつか証拠が揃えば決着する」ではありません。観察しうる証拠をすべて集め尽くしてもなお、互いに両立しない複数の翻訳マニュアルが「同じだけ正しい」まま残る。どれが本当の意味かを決める事実そのものが、世界のどこにも存在しない——「翻訳の不確定性」と呼ばれるテーゼです。
このテーゼには批判も多く、証明された定理というより一つの推測だ、という評価が現在では有力です。それでも、ここで壊れた素朴な絵は元に戻りません。原文の奥に「正しい意味」がただ一つ金庫のように保管されていて、良い翻訳とはその複製である、という絵です。翻訳が複製ではなく解釈の選び取りなら、訳が人の数だけありうることは欠陥ではなく、翻訳の本性だということになります。
古池に飛びこんだ蛙は、一匹だったのか
その「正解のなさ」を、これほど楽しく見せてくれる実例はほかにありません。芭蕉の一句です。
古池や蛙飛びこむ水の音
この17音には、100を超える英訳があります。翻訳家の佐藤紘彰は『One Hundred Frogs』という本に、この句の英訳と変奏を100以上集めてみせました。並べて読むと、訳者たちが同じ難問に別々の答えを出しているのが分かります。
小泉八雲の名でも知られるラフカディオ・ハーンの訳は、"Old pond — frogs jumped in — sound of water."。蛙が frogs——複数形です。日本語は蛙が一匹か十匹かを言わずに済む言語ですが、英語はどちらかを選ばないと文になりません。ヤコブソンの言う「何を言わされるか」が、静かな池のほとりで翻訳者に襲いかかるのです。日本文学研究者のドナルド・キーンは "The ancient pond / A frog leaps in / The sound of the water." と、一匹の蛙と現在形で静けさを取りました。詩人のアレン・ギンズバーグは "The old pond / A frog jumped in, / Kerplunk!"——水音の翻訳を、Kerplunk!(ぽちゃん)という擬音ひとつに賭けています。切れ字「や」の間をダッシュに写す訳者もいれば、行替えに託す訳者もいる。
ここで、見方がくるりと反転します。翻訳が本当に不可能なら、訳は0のはずです。翻訳が完全に可能なら、決定版が1つあれば足りるはずです。100あるという事実は、そのどちらでもないことの動かぬ証拠です。どの訳も何かを掴み、何かを取り落とす。取り落とされたものが見えるから、次の訳者がまた挑む。翻訳不可能性は翻訳を終わらせるのではなく、翻訳を終わらなくさせる。100匹の蛙は失敗の記録ではなく、300年以上前の17音と現代の英語とのあいだで、対話がいまも続いていることの記録なのです。
言葉より曖昧なのではなく、明確すぎる
では、はじめから言葉でないものは、どう伝わっているのでしょう。1842年、作曲家フェリックス・メンデルスゾーンのもとに、リューベックのマルク・アンドレ・スーシェという人物から手紙が届きます。あなたのピアノ曲集『無言歌』のいくつかは、どういう意味なのですか——歌詞のない「歌」ですから、聴き手が言葉を探したくなるのも自然なことでした。
10月15日付の返信で、メンデルスゾーンは意外な角度から答えます。世間の人は音楽を曖昧だと言い、言葉なら誰にでも分かると言う。しかし自分にはまったく逆で、個々の言葉のほうこそ曖昧で、掴みどころがなく、誤解されやすいと感じる、と。そしてこう書きます。「私の愛する音楽が私に語ってくれる思いは、言葉にするには不明確すぎるのではなく、その逆で、明確すぎるのです」。
彼が曲の「意味」を明かさなかった理由も、この手紙に書かれています。同じ言葉——たとえば「あきらめ」や「憂鬱」——から思い浮かべるものは、人によってばらばらに違ってしまう。けれど歌そのものなら、人から人へ、同じ感じを呼び起こすことができる。だから言葉にしない、と。ヤコブソンは、言語から音楽や絵画など別の記号体系への翻訳を「記号間翻訳」として数え入れましたが、メンデルスゾーンの手紙が示唆するのは、その道が逆向きには通れないかもしれない、ということです。音楽が伝えている「あの感じ」を言葉に訳し戻せないのは、そこに内容がないからではなく、言葉の網目より細かいものが通っているからかもしれません。
伝わらない前提から、伝える営みが始まる
整理しましょう。言語学の大勢は、ヤコブソン以来「厳密な意味で翻訳できない内容はない」という側にあります。説明し、補い、言い換えれば、意味は届く。「翻訳できない言葉」の本が翻訳されてベストセラーになる、という事実自体が何よりの証拠です。その一方で、失われるものの正体も見えてきました。失われるのは意味ではなく、形です。言語ごとに違う「言わされ方」、詩の響き、そして音楽のように、そもそも言葉の網目を通らないもの。
分かっていないことも残っています。クワインの不確定性をどこまで深刻に受け取るべきかは、いまも哲学の争点です。音楽が「何を」伝えているのかは、美学と音楽学の未解決問題のままです。そして、私たちがなぜ「翻訳できない言葉」のリストにあれほど惹かれるのか——自分の言葉の網の外側がある、と知らされることの喜びの正体——も、まだきちんと説明されていません。
最後に、この問いはあなたの毎日に戻ってきます。大事なことを話して、うまく伝わらなくて、「そうじゃなくて」と言い直した経験はないでしょうか。あの瞬間、あなたは翻訳者です。手持ちの言葉では届かないと知りながら、言い換えを重ね、たとえ話を出し、身振りを足す。完全には伝わらない、という前提から出発して、それでも伝えることをやめない。100匹の蛙が教えてくれるのは、それが翻訳の敗北ではなく、伝え合うという営みそのものの姿だ、ということです。