昨日一日を思い出してみてください。ドラマを1話、通勤電車で小説を少し、SNSで見知らぬ人の体験談、同僚のうわさ話——そして夜には夢。物語は食べられないのに、私たちは一日の少なくない部分を「起きていないこと」の中で過ごしています。

起きなかった出来事に、これだけの時間を

昨日一日を思い出してみてください。ドラマを1話観た。通勤電車で小説やマンガを開いた。SNSで見知らぬ人の体験談を最後まで読んでしまった。同僚のうわさ話に加わった。そして夜には夢を見た——脳が勝手に上映する、誰も頼んでいない物語です。

物語は食べられません。寒さもしのげません。それなのに私たちは、一日の少なくない部分を「実際には起きていないこと」の中で過ごし、途中でやめることに苦痛さえ感じます。読みかけの物語を閉じるときの、あの後ろ髪を引かれる感じを思い出してください。

食欲や睡眠欲なら、進化の理屈はすぐにつきます。では、この「物語欲」は何のためにあるのでしょうか。この問いには、現在の学問でもまだ決着がついていません。

立場1: 物語は生存の道具である

ひとつめの立場は、物語る心を進化がまっすぐ選んだ適応——生存と繁殖に役立ったからこそ備わった能力——と考えます。

では、何の役に立つのか。有力な答えのひとつが「シミュレーション」です。心理学者のレイモンド・マーとキース・オートリーは2008年の論文で、フィクションを社会の飛行シミュレーターにたとえました。パイロットが墜落の危険なしに操縦を練習できるように、私たちは物語の中で、裏切り、恋愛、権力争いといった社会生活の難所を、実害なしに疑似体験できるというわけです。

もうひとつの答えが「協力の装置」です。文学研究者のブライアン・ボイドは『On the Origin of Stories』(2009)で、物語は遊びから進化した適応であり、社会的な認知を研ぎ、協力を促してきたと論じました。物語は個人の脳のためだけでなく、集団を束ねるためにある、という見方です。

立場2: 物語は「心のチーズケーキ」である

ふたつめの立場は、その正反対です。物語そのものに進化的な機能はない、と考えます。

認知科学者のスティーブン・ピンカーは、芸術の多くをチーズケーキにたとえました。チーズケーキは、糖と脂肪を好むように進化した味覚の「ボタン」を、自然界にはありえない強さで押すために発明された食べ物です。同じように物語は、他人の意図を読む能力、社会情報への好奇心、パターンを見つける快感——それぞれ別の目的で進化した心の回路——をまとめて効率よく刺激する、人間が磨き上げた快楽の技術にすぎない、というわけです。

この立場に立つなら、「人はなぜ物語を必要とするのか」という問いは、「人はなぜチーズケーキを必要とするのか」と同じ形をしています。必要としているのではなく、抗えないだけだ、ということになります。

立場3: 物語は思考の形式そのものである

三つめの立場は、機能を問うこと自体を少しずらします。物語は道具ではなく、人間の考え方の基本形式だという見方です。

心理学者のジェローム・ブルーナーは『Actual Minds, Possible Worlds』(1986)で、人間の思考には二つのモードがあると論じました。命題を立てて検証する「論理・科学モード」と、出来事を意図と時間の流れの中で理解する「物語モード」です。ブルーナーにとって後者は前者の劣化版ではなく、独立したもうひとつの知性です。私たちは他人の行動を、物理法則ではなく「動機と経緯」で理解します。この立場では、自分が何者かという感覚さえ、自分について語る物語のかたちをしているとされます。

ここまで来ると、問いの姿が変わります。物語は「なくても困らないが役に立つもの」ではなく、人間にとって世界と自己が意味を持つための器そのものかもしれないのです。

三角形に筋書きを見て、語り手が子孫を残す

理論の対立をいったん離れて、実験と現場を見てみましょう。

1944年、心理学者のフリッツ・ハイダーとマリアンネ・ジンメルは、奇妙な短編アニメーションを実験参加者に見せました。映っているのは、大きい三角形と小さい三角形、そして丸がひとつ。ただの図形が平面を動き回るだけの映像です。ところが「何が見えたか」を尋ねると、多くの参加者は図形を幾何学の言葉では描写しませんでした。図形に意図や感情を読み込み、追いかける者と逃げる者、いじめと救出——登場人物と動機と筋書きを備えた、ひとつの物語として語ったのです。意図のかけらもない図形の運動にさえ、私たちの脳は物語を差し込まずにいられない。物語は「読むもの」である以前に、世界の見え方そのものらしいのです。

では、物語る能力は現実の暮らしで何をもたらすのでしょうか。2017年、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの人類学者ダニエル・スミスらは、フィリピンの狩猟採集民アグタの18のキャンプ、約300人を調査しました。アグタには、動物や天体を擬人化して、協力や男女の対等さといった規範をうたう物語が多く伝わっています。調査の結果、語りの上手な人は、そうでない人に比べて「いっしょに暮らしたい相手」として約2倍選ばれ、平均して0.53人多く子どもを残していました。そして、優れた語り手の多いキャンプほど、協力の水準が高かったのです。物語が集団の規範を運び、語り手はその報酬を受け取る——適応説が描く筋書きと、きれいに重なる結果でした。

いま分かっていること、まだ分からないこと

物語る営みが、知られている限りのあらゆる人間社会に見られること、そして物語への感受性が特別な訓練なしに現れることは、広く受け入れられています。争いが続いているのは、その先です。

たとえば「フィクションを読むと他人の心を推し量る力が上がる」のかどうか。2013年に『サイエンス』誌に載った実験は、文学作品を数ページ読んだ直後に他者の感情を読み取るテストの成績が上がると報告し、大きな話題になりました。ところが2016年の追試では同じ結果が再現されず、方法をめぐる論争がいまも続いています。物語と共感の関係は、多くの人の直感に合うにもかかわらず、因果としてはまだ確定していないのです。

適応か、副産物か、思考の形式か——この三つ巴も、実験で白黒をつけるのが難しい問いです。進化の出来事は再現できませんし、三つの立場は互いに排他的でもありません。チーズケーキとして始まったものが、あとから協力の装置に転用された可能性もあります。

確かなのは、物語の力が良い方向にだけ働くわけではない、ということです。物語は信念や規範を運ぶ強力な乗り物であり、乗せる荷物を選びません。近年では、陰謀論やフェイクニュースの広がりを物語の力の暗い面として論じる研究者もいます。物語を必要とする生き物であるということは、物語に動かされやすい生き物であるということでもあるのです。