戦争は、勝った側にとってすら高くつきます。人が死に、街が焼け、富が失われる。だとすれば、戦う前に双方が「戦争よりはまし」と思える取り決めが、必ずどこかにあるはずではないでしょうか。血を流さずに同じ結果へ着地できるのに、なぜ人はわざわざ戦争を選ぶのか——これこそが、この問いの本当の入口です。
戦わずにすむ道が、いつもあるはずなのに
戦争ほど、原因がはっきりしていそうで、実はよく分からないものはありません。
少し引いて考えてみます。戦争は、勝った側にとってすら莫大な損失です。兵士が死に、街が焼け、何年もかけて築いた富が一夜で消える。ならば、戦う前に双方が机に着き、「この線で手を打とう」と合意できれば、両者とも戦争より得をするはずです。領土を分ける、賠償を払う、勢力圏で折り合う——流血の末に行き着くのと同じ結果に、血を流さずにたどり着ける取り決めは、理屈のうえではほとんどいつも存在します。
だとすれば、本当に難しいのは「人間はなぜ好戦的なのか」ではありません。戦わずにすむ道がほぼ常に用意されているのに、なぜ時々その道が閉ざされ、双方があえて損な選択をするのか。この逆向きの問いに答えられて初めて、戦争がなくならない理由に手が届きます。そして、その答えはまだ一つに定まっていません。
原因は人の中か、国の中か、国と国のあいだか
そもそも戦争の原因はどこにあるのでしょう。1959年、政治学者ケネス・ウォルツは、無数にある説を三つの「イメージ」——分析の水準——に整理しました。この三分法はいまも議論の見取り図として使われています。
第一のイメージは、人間の本性です。 攻撃性、恐怖、名誉やプライド。戦争は結局、人の心に巣くうものの表れだ、という見方です。この立場を裏づけるように見えるのが、ヒト以外の証拠です。1974年から78年にかけて、タンザニアのゴンベで、ジェーン・グドールらの観察するチンパンジーの群れが二つに分裂し、片方がもう片方の成体オスを一頭ずつ待ち伏せて殺していきました。のちに「ゴンベのチンパンジー戦争」と呼ばれるこの出来事は、組織的な集団間の殺し合いがヒトの発明ではないことを示しています。ただし、この立場だけでは、なぜ同じ人間が長い平和も築けるのかを説明しにくい、という弱点があります。
第二のイメージは、国家の内側の仕組みです。 どんな政治体制か、誰が決定するか、経済がどうか。ここから生まれた有名な経験則が民主的平和論——成熟した民主国家どうしは、ほとんど戦争をしない、という観察です。マイケル・ドイルらが1980年代に論じて以来、これは国際政治学でもっとも頑健な経験則の一つとされてきました。もっとも、民主国家が非民主国家とは普通に戦うこと、そもそも「民主国家」の線引き次第で例外が現れることなど、批判も絶えません。
第三のイメージは、国と国のあいだの構造そのものです。 国際社会には、国家の上に立って争いを裁く世界政府が存在しません。この状態をアナーキー(無政府状態)と呼びます。混沌という意味ではなく、「最終的に頼れる審判がいない」という意味です。ここから安全保障のジレンマ——政治学者ジョン・ハーツが1950年に名づけた罠——が生まれます。ある国が身を守るために軍備を増やすと、隣国にはそれが脅威に映り、対抗して軍備を増やす。どちらも侵略など望んでいないのに、防衛の努力そのものが互いの不安を高め、戦争へ近づいてしまうのです。
三つのどれが正しいのか。ウォルツ自身は第三のイメージを重く見ましたが、多くの研究者は、どれか一つではなく、三つが層をなして絡み合っていると考えます。
「交渉の決裂」としての戦争
膠着しがちなこの問いに、鋭い切り口を持ち込んだのが、1995年に政治学者ジェームズ・フィアロンが発表した論文でした。冒頭の疑問——戦うより得な取り決めがあるのに、なぜ戦うのか——を正面から立て、戦争を交渉の決裂として捉え直したのです。
彼は、双方が合理的でも交渉が壊れてしまう理由を、大きく三つに絞り込みました。
一つめは、私的情報とそれを偽る誘因です。自分の軍事力や、どこまで本気で戦う覚悟があるかは、自分にしか分かりません。しかも交渉では、強く見せるほど有利になるので、誰もが手の内を大きく偽ろうとします。すると相手の本当の強さが読めず、「この要求は脅しなのか、本気なのか」を確かめる手段が、実際に戦ってみること以外に残らなくなる。戦争が、相手の決意を測る高価なテストになってしまうのです。
二つめは、コミットメント問題です。仮に今日いい取り決めができても、相手が明日それを破らない保証は誰にもしてくれません。とりわけ一方が急速に力をつけている場合、弱まりつつある側は「相手が強くなりきる前に、今のうちに叩いておくほうがまし」と考えかねない。将来の約束を信じられないことが、現在の戦争を呼ぶのです。
三つめは、分割不可能性——争っている対象が、聖地や王位のように「半分ずつ」にできない場合です。もっともフィアロン自身は、多くの争点は金銭や取引で埋め合わせが利くため、これだけで戦争を説明するのは難しいと慎重でした。
この枠組みの何が痺れるかというと、戦争を「理性の欠如」や「悪意」に還元しないところです。十分に賢く、損得を計算する者どうしであってさえ、情報を偽り、約束を守れないという構造の前では、戦争が起こりうる。だとすれば、平和とは善意の問題である以上に、情報を伝え合い、約束を守れる仕組みをどう設計するかという、技術的で厄介な問題になります。
いま分かっていること、まだ分からないこと
戦争は本当に減っているのか。これ自体が、いまも決着していない論争です。心理学者スティーブン・ピンカーは、暴力による死亡率は長期的に下がってきたと論じました。一方、政治学者ベア・ブラウモラーは2019年の著書で同じデータを統計的に検討し直し、戦争の頻度や規模に一貫した減少傾向は見いだせない、と反論しています。片方は「人類は暴力から遠ざかりつつある」と見て、もう片方は「そう見えるのはデータの切り取り方次第だ」と見る。足元の事実認識からして、専門家は割れているのです。
確かなこともあります。歴史家ジョン・ギャディスが「長い平和」と呼んだように、1945年以降、大国どうしが直接戦火を交える事態は起きていません。過去の歴史からすれば、これは異例の長さです。核兵器による相互の破滅の予感がこの平和を支えている、という見方は有力ですが、それが幸運な小康にすぎないのか、構造が本当に変わったのかは、誰にも断言できません。
つまり私たちは、戦争がなぜ起こるかについては、以前より精密な言葉を手にしました。けれど、それがなぜ「なくならない」のか——人の本性なのか、国家の形なのか、審判のいない構造なのか、情報と約束の設計の失敗なのか——その重みづけは、まだ地図の大半が白いままです。分からないからこそ、この問いは、遠い国のニュースではなく、これからも私たち自身の選択にかかった問いであり続けます。